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カンテク:カン・ウンボのモデル?孝定王后 洪氏

2 李氏朝鮮の妃・側室

孝定王后 洪氏(こうていおうこう こうし)は李氏朝鮮王朝の 第24代国王 憲宗の正室。

最初の王妃・孝顕王后 金氏の死後。王妃になりました。

憲宗は24歳と若くして死亡。孝定王后 洪氏は19歳で大妃になってしまいます。

孝定王后 洪氏は韓国ドラマ「カンテク・運命の愛」でチン・セヨンさん演じるヒロイン:カン・ウンボ(ホン・ヨン)のモデルになった人物です。

史実の孝定王后 洪氏はどんな人物だったのか紹介します。

ドラマ「カンテク・運命の愛」のカン・ウンボの紹介もします。

 

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孝定王后 洪氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1831年3月6日
没年月日:1904年1月2日

姓:洪(ホン、こう)
名:不明
称号:孝定王后
本貫:南陽 

父:洪在龍(ホン・ジェリョン、益豊府院君)
母:竹山 安氏(延昌府夫人)
夫: 憲宗

子供:なし

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の24代 憲宗の時代です。

日本では江戸末期から明治時代の人になります。

1831年3月6日。

1844年。憲宗の正妃・孝賢王后が死去。

憲宗の継妃として中宮(王妃)になりました。

憲宗の間に女子が生まれましたが幼くして死亡しました。

ところが結婚して5年後の1849年。夫の憲宗が死去。

25代国王 哲宗が即位しました。

孝定王后は19歳の若さで大妃になりました。

1857年。大王大妃(純元王后 金氏:純祖の正室)が死去すると王大妃になりました。

子供のいなかった洪氏は退屈さを癒すため、哲仁王后と共に若い女官を大妃殿で教育しました。この中のひとりが千一清尚宮。千一清は朝鮮王朝滅亡まで生きた朝鮮王朝最後の女官といわれます。

1863年。哲宗が死去。26代国王 高宗が即位しました。

1890年、大王大妃だった神貞王后 金氏(憲宗の生母)が死去。王室の最高の地位につきました。

1894年。日清戦争で清が敗北。日本と清の間で結ばれた下関条約で朝鮮が清から独立するのを認められました。そこで朝鮮は清から独立。「大韓帝国」に改名しました。

洪氏は「王太后」になり当時の後宮では最高の地位にいました。「明憲太后」と呼ばれました。

そのため「明憲王后」と呼ばれることもありますが。王妃としての称号は「孝定王后」です。

1904年1月2日。慶雲宮の寿仁堂で死去。享年73歳。

陵墓は京畿道九里市東丘陵内にあります。夫の憲宗、孝賢王后とともに3人が安置されています。3人が並んで葬られている陵墓は朝鮮王朝の王陵の中で唯一です。

当時は勢道政治の全盛期で、安東金氏と豊壤趙氏が熾烈な派閥争いをしていた時期。14歳で王になった憲宗は何もできず安東金氏たちの操り人形でした。

憲宗の妃だった孝定王后もほとんどエピソードがありません。

 

カンテクのカン・ウンボ/ホン・ヨン

孝定王后 洪氏をモデルにしているのが韓国ドラマ「カンテク・運命の愛」のヒロインカン・ウンボ/ホン・ヨンです。

 

カン・ウンボ(姜 恩普)/ホン・ヨン(洪 演)

 演:チン・セヨン、少女期:チェ・ミョンビン

主人公。巫女。情報屋。
カン・ウンギの双子の妹。カン・イスの娘。

10年前、家族とはぐれて水に落ちて記憶を失い。巫女に育てられて自分も巫女になりました。情報を集めて売る情報屋をしています。大胆でパワフルな女性。

王と王妃を銃撃した事件に自分の売った情報が関わっていると知り調査を始めます。また父の友人だったという司憲ペク・チャヨンに連れられ、牢にいる実の父カン・イスの姿を見せられます。そして失った過去を思い出しました。

そして姉の死の真相を探ることを決意。そのためにホン・ギホの娘ホン・ヨン(洪演)と名乗り揀擇(カンテク)に出て三揀擇の後、従二品淑儀になります。

最終回に子供を出産。

最後は王妃になります。

19世紀前の朝鮮で前の王妃の死後、新しい王妃が選ばれ最終的に王妃になる。という大まかな流れは同じ。孝定王后 洪氏は記録が少なくほぼエピソードのない人なので。立場は参考にしつつも、ドラマのカン・ウンボはほぼオリジナルなキャラクターになっています。

事実の憲宗、孝定王后はほぼ政治的に何の影響力もなくお飾りだったのと違い。ドラマのイ・ギョン、カン・ウンボは悪い重臣たちを懲らしめ国を良くしていく理想の王と王妃として描かれています。ドラマ「哲仁王后」もそうですが、大幅に脚色しないとドラマにしずらいのが純祖から後の時代の朝鮮宮廷ドラマの難しいところです。

 

テレビドラマ

カンテク 2019年 演:チン・セヨン 役名:カン・ウンボ

 

 

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