憲宗 李烉 は李氏朝鮮王朝の第24代国王。
23代純祖の孫、正祖のひ孫です。
憲宗はわずか8歳で国王になりました。大王大妃や重臣たちが政治を行い、憲宗はお飾りの王でした。憲宗が成人した後も大妃や重臣たちが中心になって政治を行いました。
このころは勢道政治全盛の時代で安東金氏と豊譲趙氏の対立が激しくなりました。災害や疫病も流行り外国船も出没します。
そんな大変な時代に王になった憲宗でしたが。国内外のことにはあまり目を向けず、大妃や重臣たちの顔色をうかがっていました。
結局、いながら王しての役目をはたしていましたが、21歳で病死してしまいます。
史実の憲宗はどんな人物だったのか紹介します。
憲宗の史実
いつの時代の人?
生年月日:1827年9月8日
没年月日:1849年7月25日
姓:李(イ、い)
名前:烉(ファン、かん)
廟号:憲宗(ホンジョン、けんそう)
本貫:全州
父:孝明世子(23代純祖の息子)
母:神貞王后趙氏
正室:孝顕王后金氏、孝定王后洪氏
子供:娘(早世)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
憲宗は1827年(純祖27年)7月18日。昌慶宮慶春殿で生まれました。
名前は烉(ファン)
父は孝明世子。純祖の長男です。
母は世子嬪 趙氏(神貞王后)。
1830年(純祖30年)。父の孝明世子が死去。
李烉が王世孫になりました。
1834年(純祖34年)。祖父・純祖が死去。
李烉が国王(憲宗)になりました。8歳での即位は朝鮮史上最年少です。
当然、憲宗は自分では政治はできないので大王大妃金氏(純元王后、純祖の正室)が垂簾聴政をしました。大王大妃は安東金氏の金祖淳の娘。純祖の時代と同じように安東金氏が好き勝手に政治を動かしていました。
1837年。金祖根(キム・ジョグン)の娘を妃に据えました。
1839年。趙萬永の弟・趙寅永が領議政になりました。
勢道政治と疲弊する民衆
1840年。大王大妃 金氏が垂簾聴政を止めました。でも憲宗は14歳。憲宗の生母・王大妃趙氏(神貞王后)は一族の豊譲趙氏を要職に就け、豊譲趙氏が権力を握りました。
安東金氏 対 豊譲趙氏の権力争いが続きました。役人たちは2つの派閥の顔色をうかがい、彼らに取り入ろうと賄賂を貢ぎました。賄賂の財源は民衆から搾り取ったものでした。
このころ。水害や伝染病も流行りましたが。朝廷は権力争いに明け暮れ、役人たちは厳しい取り立てを行い。人々の生活はますます苦しくなっていきます。生活に困った人々は家を捨てて流民になります。この時代は流民が急激に増えました。
キリスト教弾圧(己亥迫害)
苦しい生活をしている民衆は宗教に救いを求めました。朝鮮末期には様々な新興宗教が誕生。カトリックも広まりました。
もともと儒教はキリスト教に批判的で外来の宗教を排除してきました。純祖の時代にカトリックが弾圧されていましたが。この時代にまた広まったので再び禁止令が出ました。
今回の禁止令は豊譲趙氏が中心になって行いました。カトリックの禁止の名を借りた豊譲趙氏の政敵の排除でした。キリスト教とは関係のないものも言いがかりをつけられて処罰されました。
1839年。カトリックのモーバン(Maubant)神父や劉進吉・丁夏祥たち信者が処刑されました。この時期行われた大掛かりなキリスト教弾圧を己亥迫害といいます。
謀反事件
こうして人々の不満が高まる中。憲宗時代には謀反事件がおこりました。
を王に据えようとする二つの陰謀が先に発覚したが、
1836年には忠清道で南膺中が、1844年には閔普鏞が反乱を起こしました。
どちらも恩彦君(正祖の子)の孫を王にしようとする事件でした。
反乱の鎮圧には成功しましたが。反乱の首謀者になったのは中人や没落両班でした。政治的に力を持っていない人達も自分たちで王を担ごうとする時代。国王の権威も落ちていました。
欧米列強の進出
その頃「異様船」とよばれる欧米の船が慶尚道、全羅道、黄海道、江原道などの沿岸に出没。異様船とは日本でいう黒船(蒸気船)です。人々はただでさえ不安な世の中なのに見ず知らずの異様な船の出現に更に不安になりました。
漂流した船が多かったのですが。中には強硬な態度に出る者もいました。
1845年。イギリス軍艦サマラン号が勝手に済州島と西海岸を測量したりしました。
己亥迫害でフランス人宣教師を処刑したことをフランスは問題視しました。
1846年。フランス提督セシルは軍艦3隻を率いて、憲宗に国書を送ってきました。国書を受け取った憲宗は重臣たちに対応を話しあわせました。
重臣たちはフランス人がやって来たのは国内のキリスト教徒が告げ口したからだ。悪いのは国内のキリスト教徒だ。という理由で朝鮮人初の神父・金大建を処刑。朝鮮人信徒の弾圧を行いました。
フランス軍は国書の返事を受け取るために軍艦2隻を派遣しましたが暴風雨にあって遭難。憲宗はフランスの救援要請をうけてフランス人乗組員を救助させました。フランス人は上海にわたりそこから帰国して朝鮮は助かりました。
すでに1840~1842年には清でアヘン戦争がおきています。欧米諸国の圧力は強まりつつありましたが。朝鮮の朝廷は海外のことは無視して国内で権力争いに明け暮れていました。
憲宗も国内外で起きていることに興味をもたず大妃や大臣達の顔色をうかがってばかりでした。
憲宗の最期
憲宗は1844年ごろから体調が悪かったのですが。
フランスとの問題では精神を疲弊してしまいフランスとの決着した頃から病状が悪化。顔色が悪くなり、食後に腹部が腫れました。
1849年7月25日。憲宗が死去。享年21.
憲宗の死によって正祖の直系子孫が断絶。
憲宗には跡継ぎがいなかったので江華島に流罪になっている李元範(哲宗)が次の国王に選ばれました。
テレビドラマ
憲宗そのものがドラマに登場することは殆どありません。
「カンテク」は憲宗の時代をモデルに作られています。安東金氏と豊譲趙氏の争いも描かれています。
ドラマの中で憲宗 李烉(イ・ファン)に相当するのがイ・ギョン(李烱)。
ドラマのイ・ギョンは憲宗と違って有能で民想いの王です。ここで国を立て直せたら?というのが「カンテク」の世界です。
カンテク・運命の愛 2019年、TV朝鮮 演:キム・ミンギュ 役名:イ・ギョン
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