閔升鎬(びん しょうこう、ミン・スンホ)は李氏朝鮮末期の政治家。
明成王后の義兄です。
朝鮮末期に勢道政治を行い権力をもっていた閔氏一族の中心人物。
他の両班たちと協力して興宣大院君と対立。失脚に追い込むことに成功しましたが。
届けられた贈り物を開けたところ爆発して死亡しました。
史実の閔升鎬はどんな人物だったのか紹介します。
閔升鎬の史実
いつの時代の人?
生年月日:1830年
没年月日:1874年
名前:閔升鎬(びん しょうこう、ミン・スンホ)
本貫:驪興閔氏
父:閔致久
母:貞敬夫人全州李氏
養父:閔致禄
養母:韓昌府夫人李氏
妻:不明
義妹:明成王后 閔氏
子供:不明
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では明治時代の人になります。
李氏朝鮮の第26代王・高宗李㷩の妃 明成王后(閔妃)の義兄。
閔升鎬は1830年に生まれました。
父は閔致久。
閔升鎬は興宣大院君の妻・府大夫人閔氏の弟です。
生まれてまもなく、息子のいなかった閔致禄の養子になりました。
閔致禄は明成王后の父です。
そのため閔升鎬は明成王后の義理の兄。
興宣大院君の妻の弟になります。
でも哲宗時代の閔一族はそれほど有力な一族はありませんでした。
1861年(哲宗12年)。蔭位(おんい=有力氏族の推薦)で役職につきました。
高宗の時代
1863年。興宣大院君の息子・高宗が即位しました。
1864年。閔升鎬は科挙の武科に合格。
1866年 義妹の閔氏が王妃になりました。
閔升鎬は明成王后の義理の兄ということで出世します。吏曹参議(正三品)、戸曹参判(従二品)になりました。
1872年。 刑曹判書(正二品)になりました。
1873年。 兵曹判書(正二品)になりました。
興宣大院君と対立
日本が国書を持ってきて国交を要請した時。興宣大院君は日本との国交樹立に反対しましたが、閔升鎬は興宣大院君に対抗して開国に賛成しました。
興宣大院君の急激な改革は両班たちの反発を受けました。閔升鎬たち閔氏一族は反対勢力の中心になって興宣大院君と対立。
1873年。崔益鉉が興宣大院君を弾劾をおこすとすると。明成王后 閔氏と、趙大妃がこの国は興宣大院君のものかと批判。閔升鎬たち閔氏一族や両班はそろって興宣大院君を批判。興宣大院君を隠居させました。
閔氏一族の横暴に批判が集まる
高宗の親政治が開始され、明成王后は閔氏一族を要職につけました。
閔升鎬は閔氏一族の中心になって政治を行いました。
ところが閔氏一族は職権乱用や賄賂などで不正な蓄財を繰り返し、かつての安東金氏のように勢道政治に逆戻り。
人々は閔氏に失望して興宣大院君の時代を懐かしむようになりました。
しかし儒学者たちは興宣大院君の失脚を喜んでいました。というのも興宣大院君が書院(儒学生を要請する私塾)を廃止させていたからです。
そこで閔氏派は儒学者を味方にするために書院を復活させました。
1874年春。景福宮が火災。高宗が昌徳宮に避難する騒ぎになりました。
おなじころ、閔氏一族の最高権力者だった閔升鎬の屋敷も火事になりました。明成王后 閔氏は興宣大院君が放火させたと主張しましたが、証拠がなくうやむやになりました。
閔升鎬の最期
1874年(高宗11年11月28日)。身元不明の僧侶が閔升鎬に贈り物を持ってきました。
閔升鎬は贈り物を受け取ると、箱を開けました。すると中にしかけてあった爆弾が爆発してその場にいた閔升鎬と家族。閔升鎬の養母で明成王后の生母・韓山李氏が死亡しました。
死ぬ直前、駆け寄った人々に閔升鎬は雲峴宮(興宣大院君の住居)を指さして「雲峴宮・・・」と言うと、息絶えました。
明成王后は「興宣大院君が犯人だ」と訴えました。犯人として大院君の元兵使、申哲均が逮捕されました。申哲均は拷問されて自白。処刑されました。
閔升鎬の家は閔泳翊が養子になってあとを継ぎました。
テレビドラマ
明成皇后 2001年、KBS 演:キム・ヒョウォン
風と雨と雲 2020年。tv朝鮮 演:イ・ジウ
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