隆慶帝 穆宗 朱載坖(しゅ・さいき) は明朝の第13代皇帝。
嘉靖帝時代に乱れた朝廷の問題や、明が長年悩まされ続けたモンゴルや海賊の対策など。隆慶帝の時代にはそれ以前よりも改善された出来事が幾つかあります。ところが隆慶帝は政治に無関心で後宮にいることが多く。政治は内閣大学士たちに任せていました。
隆慶帝が幸運だったのは父が残した有能な臣下がいたことです。だから隆慶帝は遊んでいられました。
でも不摂生な生活を続けたため36歳の若さで死亡してしまいます。
史実の隆慶帝はどんな人物だったのか紹介します。
隆慶帝の史実
いつの時代の人?
生年月日:嘉靖16年1月23日(1537年3月4日)
没年月日:隆慶6年5月26日(1572年7月5日)
姓 :朱(しゅ)氏
名称:載坖(さいき)
国:明
地位:皇帝
呼称:隆慶帝(りゅうけいてい)
廟号:穆宗(ぼくそう)
父:嘉靖帝
母:康妃 杜氏(孝恪太后)
正室:孝懿荘皇后李氏、孝定皇后李氏
子供:憲懐太子、靖悼王、万暦帝 、潞簡王
彼は明朝の第13代皇帝です
日本で室町時代(戦国時代)になります。
おいたち
嘉靖16年1月23日(1537年3月4日)。朱載坖(しゅ・さいき)が誕生。
父は嘉靖帝
母は康妃 杜氏
載坖(さいき)は三男でした。
嘉靖18年(1539年)。「裕王」になりました。同じ時期に次男の朱載 が皇太子、四男の朱載圳が景王になっています。
嘉靖28八年(1549)。皇太子・朱載 が死亡。
臣下たちは景王 朱載圳を皇太子にと主張しましたが。嘉靖帝と景王 朱載圳は仲が悪く。裕王 載坖が後継者になりました。冊封式が行なわれなかったので、立場上は裕王のままでした。
嘉靖帝は景王 朱載圳を地方に飛ばし、景王 朱載圳は現地で死亡しました。
嘉靖帝の皇子は裕王 載坖しかいません。
嘉靖45年12月(567年1月)。嘉靖帝が死去。裕王 朱載坖が即位しました。「隆慶」に開眼されました。
隆慶帝の時代
内閣の内閣首輔 徐階と張居正は共同で嘉慶帝の遺詔の草案を作成。
嘉慶帝の遺詔(遺言)となってますが、徐階と張居正が嘉慶帝の死後に作ったものです。嘉慶帝は道教を熱烈に信仰していて、ろくに朝議に出ず宗教儀式に凝っていました。その一方では東廠や錦衣衛を使って人々を監視して批判するものを弾圧していました。何かあると臣下は処罰されるので。皇帝に何も言えません。恐怖政治の時代でした。
徐階たちは嘉慶帝時代の問題点を修正。嘉慶帝が雇っていた大勢の道士(道教の呪術師)を廃止。不当に有罪判決を受けた役人たちの官職を回復させました。ある程度は意見が言えるようにしました。
隆慶3年(1569年)。高拱が政界に復帰。嘉慶帝時代を懐かしむ高拱は徐階たちを批判、弾劾しようとしましたが失敗、隠居しました。
隆慶帝は後宮で育ち30歳まで宮廷で暮らしていました。隆慶帝は多くの宦官と親しくなっていたので彼らに軍営の監督を任せようとしました。でも徐階に反対されて諦めました。
でもそれで徐階は宦官や高拱派から反発を受け、隆慶2年(1568年)に引退しました。
その後、力を持ったのが内閣大学士の趙貞吉でした。高拱は朝廷の者たちに賄賂を送り復帰工作をしていました。朝廷では趙貞吉と張居正が対立。そこで張居正は高拱を呼び戻すのを提案。隆慶帝は高拱の復帰を許可。高拱は朝廷に呼び戻されました。
趙貞吉は高拱・張居正の争いに敗れ引退しました。
高拱は徐階のせいで引退に追い込まれたので徐階派を左遷。朝廷内で独裁的な力を持ちます。隆慶帝は政治に無関心なので高拱が政治のトップに立ったも同じです。
北虜南倭の解決
嘉靖帝時代から隆慶帝時代にかけて明は北のモンゴル。南の海賊に悩まされていました。この問題を中国では「北虜南倭」といいます。
明は海禁(中国版の鎖国)しているので貿易は朝貢だけという建前でした。でも明の制度はすでに時代遅れで貿易量の増加に対応できなくなっていました。
北虜はモンゴルの襲撃です。モンゴルのアルタン・ハンは略奪目的の襲撃を繰り返していましたが。高拱たちの働きで和平が成立。11の馬市を開く代わりにアルタン・ハーンが明に朝貢、明から順義王の称号が与えれました。馬市でモンゴルとの貿易が行われ、モンゴルの襲撃は収まります。
南倭とは倭寇(後期倭寇)のことです。後期倭寇のきっかけは貿易を減らそうとする明と、増やそうとする日本側商団の衝突でしたが。やがて中国人海賊が日本人のマネをして海賊行為を行うようになります。
明は海禁(中国版の鎖国)しています。でも実際には密貿易が盛んでした。嘉靖帝時代に密貿易を撲滅しようとしたら明の貿易商が怒って暴れだしました。
結果として、倭寇といっても日本人は1~3割。海賊の多くは中国人という有様になりっていました。
犠牲を出しつつも嘉靖帝時代の終わりごろには海賊の鎮圧はそれなりに効果をあげるようになりましたが。隆慶帝時代に貿易を一部認めることにしてようやく後期倭寇は収まりました。
政治に無関心な隆慶帝
隆慶帝が即位したばかりのころの明は問題だらけ。隆慶帝は即位したばかりのころは政治に意欲を見せていましたが。やがて太監(宦官)たちを贔屓するようになり。政治は大学士たちに任せ後宮に入り浸って遊ぶようになりました。隆慶帝は好色で大勢の美女を後宮に集め精力剤をよく使っていました。
大臣たちが止めさせようとしましたが。隆慶帝はそれを聞きません。
やがて隆慶帝は体調を崩し、一人で生活もままならないようになりました。
隆慶6年(1572年)。隆慶帝は病状が悪化して死亡。享年36。
あとをついだのは息子の万暦帝ですが。まだ11歳でした。
テレビドラマ
玉楼春 2021年、中国 演:鄭凱
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