思悼世子(サドセジャ)は正祖(イ・サン)の父親。
荘献世子(チャンホンセジャ)ともいいます。でも思悼世子(サドセジャ)の方が有名ですね。ドラマではイ・ソンの本名で登場することもあります。
思悼世子は不幸な最期でした。そのため死の原因については今でも様々な説があります。それだけにドラマの題材としてもよく扱われます。
思悼世子(サドセジャ)は、なぜ米びつに閉じ込められ、殺されてしまったのでしょうか?
朝鮮王朝実録をもとに史実の思悼世子(サドセジャ)がどんな人物だったのか、なぜ殺されてしまったのか紹介します。
思悼世子(サドセジャ)思悼世子の史実
思悼世子の肖像画
プロフィール
称号:荘献世子(チャンホンセジャ、そうけんせいし)
思悼世子(サドセジャ、しとうせいし)、荘宗(追尊)
生年月日:1735年 2月13日
没年月日:1762年7月12日
享年:27(数え歳)
日本では江戸時代になります。
父:英祖
母:暎嬪李氏
思悼世子(サドセジャ)の家系図と家族
思悼世子(サドセジャ)の家系図
思悼世子(サドセジャ)と一族の家系図を紹介します。
思悼世子(サドセジャ)の家族
思悼世子(サドセジャ)の史実
おいたち
1735年 。李愃(イ・ソン)は英祖と暎嬪李氏の間に産まれました。英祖の次男です。
半兄・孝章世子が亡くなったため、わずか2歳で世子になりました。英祖はすでに40歳をすぎていますから、跡継ぎを早く決めたかったのです。
思悼世子の母は側室でした。そのため王の後継者として貞聖王后徐氏の手で育てられました。
10歳の時、老論派の重臣・洪鳳漢の娘・惠慶宮洪氏と結婚します。
父の英祖は厳しすぎる
幼い頃から李愃(イ・ソン)は父・英祖から学問をするよう命じられました。
しかし若い李愃(イ・ソン)は尚宮たちと戦争ごっこをして遊び。母の暎嬪李氏には勉強していたと嘘をついていました。
でも嘘が英祖にばれてひどく怒られることもありました。
李愃(イ・ソン)は厳しすぎる英祖を怖がっていました。英祖の前では一言も言い返せなかったといいます。
妻の惠慶宮洪氏の日記「閑中錄」には世子の様子を「恐怖症」と書かれています。妻が見ても明らかに怖がってるように見えたのでしょう。
英祖が譲位を言い出す
1749年(英祖25年)1月。英祖は大臣らの前で思悼世子に譲位を宣言。突然の出来事に大臣たちは反対しました。
呼び出された思悼世子は英祖の前でうつ伏せになり泣いたまま英祖の言葉に返事をしませんでした。大臣たちも譲位を引き止めるので英祖も譲位を取りやめました。
ところが後日、英祖は思悼世子は代理聴政をさせると発表。初めからそのつもりだったのでしょう。
世子などが王の代わりに政治を行うこと。普通は何らかの理由で王が政治を行えないときに実施されます。このときはまだ英祖が元気だったので、英祖の許可を得ながら世子が臣下と話し合いない柄政治を行います。英祖が後見して世子に経験を積ませるのが目的。
英祖は老論と少論が争う朝廷を不安に感じていました。思悼世子が王になった時、重臣たちの権力争いの中でうまくやっていけるのか不安でした。そこで将来のために若いときから経験を積ませるため代理聴政を任せたのでした。
また自らが表に出ないことで王の権威を高める狙いもあります。王が重臣たちと直接話し合うと、どうしても重臣たちの意見に流されてしまいます。王と重臣の間にワンクッション置くことで王が重臣の意見に流されない政治ができるのです。
しかしこの方法は間に立つ者に高い調整能力が求められます。
大臣たちは代理聴政にも反対しました。でも英祖は無視して思悼世子に代理聴政を行わせました。
代理聴政の始まり
当時、力をもっていたのは老論派でした。ところが思悼世子の代理聴政が始まると老論派内部でも対立が起こります。
当時の勢力
- 非外戚勢力(思悼世子の敵)
領議政 金在魯(キム・サンノ)たち。
王家と親戚になってない老論。
思悼世子の力が強くなるのを恐れて排除しようとする。 - 外戚勢力(思悼世子の味方)
思悼世子の義父・洪鳳漢(ホン・ボンハン)たち。
王家と親戚になっている老論。
世子を助けて力を得ようとする。
思悼世子が少論派をかばったと言われることもあります。でも老論派が強くなりすぎるのを抑えるために英祖の命令でやったことでした。
思悼世子が代理聴政をはじめると英祖は厳しく指導しました。思悼世子は褒められることはなく、怒られてばかりでした。怒鳴られることもありました。
1750年(英祖26年)。長男の懿昭世子が誕生。しかし3年で死亡します。
1752年(英祖28年)。次男の祘(サン、後の正祖)が生まれました。
このころ英祖は体調を崩し寝込んでいました。英祖にかわって思悼世子が政治を行います。
しかし老論たちは思悼世子が間違った政治を行っていると告げ口。重臣たちの告げ口を信じだ英祖は思悼世子にきつくあたることが増えました。
思悼世子はうつ病気味になったといいます。
1757年。貞聖王后が死去。
1759年。英祖が新しい王妃を迎えました。貞純王后です。
金在魯は思悼世子への批判、英祖へ告げ口を強めます。金在魯は貞純王后から子が生まれればその子を世子にして権力を握るつもりでした。
思悼世子の義父・洪鳳漢が領議政になるとますます誹謗中傷は激しくなりました。
精神を病みおかしな行動をとる思悼世子
厳しい英祖と重臣たちの誹謗中傷に思悼世子の精神は病んでいきます。
思悼世子はしだいにおかしな行動をとるようになりました。
ついに殺人まで!悪行を重ねるサドセジャ
祖母にあたる仁元王后(粛宗の3番目の妃)に仕えた女官の朴氏(朴氷愛:パク・ピンエ。高宗の時代に景嬪朴氏に追尊)を妾にしました。
でも英祖に怒られます。許可なく目上の者に仕える女官に手を出してはいけないからです。
さらに精神的に病んでいた思悼世子は朴氏を撲殺してしまいます。
他にも思悼世子は侍女など殺人を犯すことがあったといわれます。
王に無断で都を離れ密会
1763年(英祖37年)4月。思悼世子は英祖に黙って平壌に行きました。隠居していた少論派の趙載浩(チョ・ジェホ)に会いに行ったのです。味方の少ない思悼世子は趙載浩に助けを求めたのだといわれます。
重臣たちからは批判もありましたが洪鳳漢は平安道の監査という名目でごまかそうとしました。最初は英祖にはばれませんでした。しかし5ヶ月後に貞純王后の兄に知られて英祖に報告されてしまいます。
さらに東宮殿の地下に空間があり、そこに軍旗を隠していることがわかりました。
思悼世子は英祖から叱られましたが、それ以上の大きな罰はうけていません。
かわりに趙載浩、李天輔、閔百祥(ミン・ベクサン)など重臣が責任を取らされ死罪になりました。
謀反の訴え
1762年(英祖38年)5月22日。老論派の羅景彦が訴えを起こしました。数々の思悼世子の罪を書きならべ謀反を企てていると告発書を出したのです。それを見た英祖は怒りました。
しかし英祖も全てを信じたわけではありません。謀反だと煽るのは論外だとして羅景彦を投獄して処刑しました。
しかし幾つかの訴えは本当だったようです。思悼世子は泣きながら非行の原因は自らの火症が原因だとして非行そのものは否定しませんでした。
英祖は「ならばもっと追い詰められたら治るのではないか」と冷たく突き放しました。
怒りすぎて理性がきかなくなる極度のヒステリー症状。朝鮮や中国の文献ではよく出てきます。
思悼世子の最期
母にも見放される
閏5月13日。英祖は思悼世子に会おうとしました。
しかし思悼世子は病気を理由に会おうとしません。さらに謀反があるという連絡が入りました。報告したのは思悼世子の母・暎嬪李氏でした。
思悼世子の奇行には実の母でさえ頭を痛めていました。息子を罰する代わりに孫だけは助けてくれるように訴えたのです。
英祖は謀反に備え王宮の警備を厳重にします。
米びつに閉じ込められる
思悼世子は英祖の前に呼び出され冠を脱いで土下座させられました。思悼世子は額から血がでるほど頭を地面に打ちつけ謝りましたが、英祖は思悼世子に自害を言い渡しました。
大臣たちもその場に駆けつけましたが、だれも思悼世子をかばおうとしません。義父の洪鳳漢でさえ英祖に意見はしませんでした。
思悼世子の息子で英祖の孫・祘(サン:後の正祖)が慌ててやってきました。英祖は世孫が部屋に入ってこれないようにすると、思悼世子に改めて自害を命じました。
思悼世子があきらめて自害しようとすると、思悼世子の側近が止めました。
そこで英祖は思悼世子の世子位を廃して庶人にします。洪鳳漢も英祖に意見は言いませんでした。
思悼世子は泣きながら英祖に許しを求めました。しかし英祖は激怒して思悼世子を米びつに閉じ込めるように命令しました。
思悼世子は米びつに閉じ込められ8日後に死亡が確認されました。享年27歳。
思悼世子の死後
思悼世子が死亡して半月後。英祖は庶子に廃したことを取り消し、思悼世子(サドセジャ)の称号を与えました。
一ヶ月もしない間に英祖は金在魯を解雇しました。
英祖は思悼世子が死ぬ原因を作ったのは金在魯と思悼世子の非外戚勢力だと判断したのです。金在魯は流罪の後、死罪となります。
思悼世子を死に追いやった英祖ですが息子を憎んでいたわけではないようです。自ら祭主となって葬儀を行いました。
事件後、英祖は世孫を孝章世子の養子にしました。孝章世子は思悼世子の兄で既にこの世にはいません。そして世孫に思悼世子に追尊しないよう約束させました。
世祖は即位後、思悼世子の追尊を試みましたが重臣たちの反対で実現しませんでした。高宗の時代に「荘宗」と追尊されます。
思悼世子はなぜ殺された?
思悼世子は厳格すぎる父親と激しい派閥争いの中、精神を病んでしまいました。やがておかしな行動が目立つようになり。殺人など悪行を繰り返し、周囲から王族の恥さらしと思われ廃位させようという動きが出ます。
でも思悼世子を罪人として処分してしまうと、その子の祘に後を継ぐ正当性がなくなってしまいます。
思悼世子が生きていたら祘が王になったときに問題が出ます。
そこで英祖は苦渋の決断として思悼世子の命を奪うことにしたのでしょう。
できれば自害してほしかったかもしれませんが、思悼世子が拒否。最後は米びつに入れて餓死させました。処刑ではなく体罰中に死んだことになったのです。
朝鮮王朝実録の記録を見る限りでは思悼世子の行動は異常です。王族の恥さらしとして始末されても仕方ありません。
でも実録の内容がすべて正しいとも限りません。そのため死に至るいきさつについては現在でも様々な説があります。
それだけにドラマの題材としても面白いのかもしれませんね
テレビドラマのサドセジャ
ドラマ一覧
大王の道 1998年 MBC 演:イム・ホ
商道 2001年 MBC
イ・サン 2007年 MBC 演:イ・チャンフン
正祖暗殺ミステリー8日 2007年 CGV 演:チョ・ハンジュン
風の絵師 2008年 SBS 演:キム・ウォンソク
トキメキ☆成均館スキャンダル 2010年 KBS
ペク・ドンス 2011年 SBS 演:オ・マンソク
秘密の扉 2014年 SBS 演:イ・ジェフン
赤い月 2015年 KBS 演:キム・デミョン
仮面の王 イ・ソン 2017年 MBC 演:ユ・スンホ
ドラマでは別人のようになっている思悼世子(イ・ソン)
正祖(イ・サン)の父、英祖の息子という有名な王の間の世代だったこと。悲劇的な最期だったことから様々なドラマに登場しています。
しかし朝鮮王朝実録の記録を忠実に再現したドラマは殆どありません。
歴史の記録どおりの人だったとすると、イ・ソンはあまり同情できる人物ではなくなってしまいます。そうなるとイ・サンのイメージも傷ついてしまうからだと思われます。
「大王の道」は最近のドラマに比べれば比較的歴史の記録に近い内容です。
「イ・サン」では悲劇的な世子として描かれました。
新しくなるほど英雄化が進む
近年では歴史の記録は無視して「秘密の扉」や「イ・ソン仮面の王」のように正義感あふれる英雄的な人物として大幅に脚色されることが多いようです。
「秘密の扉」と「イ・ソン仮面の王」では父は先の王(景宗)を暗殺して王になった。イ・ソンは正義感あふれ真実を暴こうとする王子。というパターンは同じ。
「秘密の扉」は実在の人物の名前を使ってますがほとんど別人です。ストーリーも歴史の記録とは違ってます。イ・ソンを理想の王子として大幅に美化しています。
「イ・ソン仮面の王」では登場人物は架空の設定。現実離れしたストーリーになってますが、イ・ソンの名前は同じ。王室のおおまかな人間関係は景宗・英祖・思悼世子をモデルにしているようです。
コメント