趙祐(ちょうゆう)は10世紀の宋の皇子。
第3代皇帝 真宗 趙恒の次男です。
趙玄祐(ちょうげんゆう)ともいいます。
真宗の息子は6人いましたがほとんどが幼くして亡くなっています。
趙祐もわずか9歳で亡くなってしまいます。
史実の趙玄祐はどんな人物だったのか紹介します。
趙祐の史実
いつの時代の人?
生年月日:995年12月24日
没年月日:1003年5月25日
享年:9歳
姓 :趙(ちょう)氏
名称:祐(ゆう)、玄祐(げんゆう)
国:宋(北宋)
地位:太子(死後 追封)
称号:信国公、周王、悼献太子
父:真宗 趙恒
母:皇后郭氏
彼は第3代皇帝 真宗 趙恒の次男です。
日本では平安時代になります。
おいたち
太宗の時代。
至道元年(995年12月24日)に生まれました。
父は太宗の3男で皇太子の趙恒(ちょう・こう、後の真宗)
母は趙元侃の正室・郭氏(後の皇后)
趙恒はこの年に皇太子になったばかりでした。
名前は祐(ゆう)あるいは、玄祐(げんゆう)
記録によって「祐」と書かれたり「玄祐」と書かれるのでどちらが正しいのかはわかりません。
趙祐は趙恒の次男です。
997年5月8日。太宗が死去。父の趙恒が真宗 皇帝になりました。
咸平5年11月18日(1002年12月24日)。真宗から「信国公」の爵位が与えられました。
咸平6年4月22日(1003年5月25日)。9歲のとき、趙祐が死去。原因は不明です。
真宗は趙祐に「周王」の爵位を与え。「悼獻」の諡号を与えました。
景德3年(1006年)10月。祖父 太宗の永熙陵に葬られました。
弟の仁宗の即位後。「太尉」「中書令」の位が与えられました。
明道2年3月29日(1033年5月11日)。劉太后が死亡。
仁宗の親政が始まりました。
明道2年10月24日(1033年11月18日)。「皇太子」に追封されました。「悼獻太子」と呼ばれます。
劉太后の死後、1年もたたないうちに「皇太子」の地位が与えられたということは、劉太后が行きている間は趙祐に皇太子の地位を与えることができなかったからでしょう。
真宗の子供は早世
真宗 趙恒には記録では6人の息子がいました。
名前がわかっているのは次男の趙祐と、6男の趙禎(仁宗)だけです。
成人に成長したのは劉皇后(劉娥)の養子になった趙禎(仁宗)だけ。
長男・三男・四男・五男については名前、生没年、生母の情報が全くありません。
不自然なほど記録がありません。
真宗は劉皇后の出産記録を捏造してまで李氏の子を劉皇后の息子にしました。真宗時代の後宮は不自然なことが多いです。後宮で何か起きていたのかもしれません。
テレビドラマ
大宋宮詞 2021年、中国 演:於垚 役名:趙佑
史実と同じ真宗 趙宗の次男。
ドラマでは長男は劉娥の息子・趙吉ですが。趙吉は実在しない架空の人物。劉娥は生涯子を生んでいません。
劇中では趙佑は疱瘡で死亡。
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