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宋 英宗 趙曙(宗実) 改革を目指すも短命だった皇帝

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

英宗 趙曙(ちょう・しょ)は11世紀の北宋の第5代皇帝。

皇太子になる前の名前は 趙宗実(ちょう・そうじつ)でした。

先代の4代 仁宗の息子ではなく、仁宗の甥です。

勤勉で頭の良い皇帝だったといわれます。

当時の宋には様々な問題があることがわかっていて何とかしようとしました。でも病気がちで在位期間が短かったので大きな業績は残せませんでした。

でも英宗の志は息子の神宗に受け継がれました。

史実の英宗 趙曙はどんな人物だったのか紹介します。

 

 

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宋 英宗の史実

いつの時代の人?

生年月日:1032年2月16日
没年月日:1067年1月25日

在位:1063年5月1日 ~ 1067年1月25日

姓 :趙(ちょう)氏
名称:宗実(そうじつ)→皇太子になった後、 曙(しょ)に改名

国:宋(北宋)
地位:皇太子→皇帝
廟号:英宗

父: 趙允譲(濮王)
母: 任氏(仙游県君)
夫:宣仁皇后 高氏

子供:神宗 趙頊など。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

明道元年1月3日(1032年2月16日) 誕生。

最初の名前は 趙宗実(ちょう・そうじつ)

父は濮王 趙允譲
太宗の子・商王 趙元份の息子。
仁宗の従兄弟になります。

母の任氏は趙允譲の側室・仙游県君

仁宗には跡継ぎがなく、生まれた男子も幼くして死亡していました。

景佑2年(1035年)。そこで趙宗実が仁宗のもとで育てられることになり皇宮で育てられました。このころ曹皇后の姪の高滔滔と仲良くなったといいます。

仁宗は寵愛する張貴妃に男子が生まれるのを期待して、いったんは趙宗実を家に戻しました。

しかしその後も、仁宗には男子は生まれませんでした。

成長した趙宗実は幾つかの役職を歴任。

嘉祐7年(1062年)8月。趙宗実は皇太子に任命され曙(しょ)の名前が与えられました。

嘉祐8年(1063年)3月。仁宗が福寧殿で死去。
4月。皇帝に即位しました。

英宗の時代

英宗と曹太后の対立

英宗が即位した初めの頃。英宗は重い病にかかり、慈聖太后 曹氏が垂簾聴政を行いました。

すると一部の宦官たちは曹太后に英宗の悪口を言い、曹太后と英宗が険悪な関係になりました。

そこで韓琦と欧陽修は宮廷内の対立を解決するため、まず曹太后に対して「先帝仁宗陛下に仕えてこられた曹太后は誰もが貴方が賢徳で寛大で仁慈であり、聡明な方であることを知っています。なぜ今、息子と不和になる必要があるのでしょうか?彼は病人ですから、貴方まで同じ目線で接する必要はありません。他の人々が天下の他の継母について議論するように、貴方についても議論されることを望まれるのですか?」と言いました。

彼らはまた、英宗 趙曙に対して親孝行の大切さを説明し、太后が英宗に不当な扱いをすることはないと助言。英宗と曹太后は対立は徐々に緩和されました。

親政の開始

治平元年(1064年)5月。英宗が病から回復。曹太后の垂簾聴政は終わりました。

趙秀が政権に復帰してからわずか半月後。宰相の韓琦らは、英宗の生父の称号の問題を議論するように提案しました。しかし仁宗の死から14ヶ月が経過。英宗は大喪の礼(古代中国の儀式一つ、父や母の死後2周忌、つまり25ヶ月目)の後にこの問題を議論するように指示しました。

 

英宗は非常に勤勉な皇帝で臣下にも厳しかったようです。臣下に甘かった仁宗とは違うタイプの皇帝です。英宗は臣下が奏事を行うと、細かく内容を問い詰めて判断しました。そのため政務は緊張感のあるもになりました。

 

濮議(ぼくぎ)の争い・英宗の父の称号問題

英宗 趙曙は韓琦たちに対して、父・趙允譲にどんな爵位を与えるべきか議論するように命じました。

治平2年(1065年)。韓琦・欧陽脩・曾公亮は英宗の意向を受けて趙允譲に先代皇帝を意味する「皇考」を提案。

ところが王珪・司馬光・范純仁・呂大防は皇帝の伯父を意味する「皇伯」にすべきと主張。両者の争いに発展します。さらに曹皇太后が介入して韓琦たちを批判しました。

韓琦たちと司馬光たちはどちらも譲らず政治は混乱しました。

呂誨、范純仁、呂大防は降格。

治平3年(1066年)。英宗が曹皇太后を説得。趙允譲と3人の妻妾を「親」扱いにして趙允譲を「皇考濮安懿皇」と呼ぶことで決着。その後、英宗が死去したので趙允譲に皇帝の称号が贈られないままこの問題は終わりました。

 

西夏との争い

治平3年(1066年)。西夏が大順城(甘粛省華池県)に攻撃してきました。

韓琦は使者を送り歳賜と和市を停止すると夏西に伝えました。枢密使の文彦博は仁宗時代の戦争を持ち出して西夏との戦争になると反対しましたが。英宗は韓琦の意見を支持。

すると、毅宗 李諒祚は宋に謝罪してきたので宋は褒美として西夏に絹五百匹、銀五百両を与えました。

西夏は大規模な侵攻はないものの金品目当てに何度も宋を攻撃。宋も西夏が謝れば金品を与え貿易を再開することを繰り返しました。

改革への取り組み

英宗が皇帝になったとき、朝廷の収入より支出が多く宋は財政赤字になっていました。

英宗は仁宗時代からいる韓琦・欧陽脩・富弼たち改革派の大臣を採用。解決策を話し合うように指示。

当時、役人の多さや人件費の高さが宋の財政を圧迫していました。そこで昇進にかかる年数を引き伸ばしました。宋は役人を優遇しすぎて年数経つと昇進して人件費が高止まりしてしまいます。人件費の高騰にあるていどの歯止めをかけました。

しかし英宗の在位期間は短く、本格的な改革を始める前に病に倒れてしまいます。

本格的な改革は次の神宗の時代に持ち越されました。

文化

英宗は読書が好きで、書物の編纂も重視していました。

英宗が即位したとき、司馬光が自分が書いた「歴年圖」を提出。英宗は喜びました。

司馬光はさらに大きな歴史書編纂プロジェクトを考えて提出。

治平3年(1066年)。英宗は司馬光に「資治通鑑」の編纂の責任者に命じました。英宗は司馬光に編纂に必要な人員を選ばせ、費用、道具も与えました。司馬光は19年かけて「資治通鑑」を完成。「資治通鑑」には正史編纂では採用されなかった資料も使われていて、中国史を知る貴重な資料になっています。

 

最期

治平3年(1066年)11月8日。もともと病気がちだった英宗が病に倒れました。
同年12月、宰相の韓琦の助言により、長男の趙王 趙頊を皇太子にしました。

英宗は皇太子 趙頊に宋の抱える問題点を教え、それを改善するように指示しました。

治平4年1月8日(1067年1月25日)病死。神宗 趙頊が即位しました。

 

逸話:

朝鮮 英祖 李昑(最初は英宗)の没後。廟号を何にするか話し合われました。そのときある大臣が生前の李昑が宋の英宗を尊敬していたことから「英」の字を使うように言われたと発言。それで「英宗(その後、英祖に変更)」に決定したという逸話があります。

 

テレビドラマ

明蘭 2018年、中国 演:馮暉
孤城閉 2020年、中国 演:王昱超 役名:趙宗実

 

 

 

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