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趙元佐・精神病で皇帝の座を逃した皇子は宗太宗の野望の犠牲者?

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙元佐は北宋の第2代皇帝 太宗の長男。
母は元徳皇后 李氏。

若いころは頭がよく体格も立派で父からも可愛がられていました。朝廷の誰もが太宗の後継者になると思っていました。

ところが趙元佐は叔父の粛清をきっかけにおかしくなってしまい。後継者の座からはずされてしまいます。

 

史実の趙元佐はどんな人物だったのか紹介します。

 

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趙元佐の史実

いつの時代の人?

生年月日:965年
没年月日:1027年

姓 :趙(ちょう)氏
名称:徳崇(とくすう)→元佐(げんさ)
字:惟吉

国:北宋
地位:衛王→楚王→庶人→楚王

父:太宗 趙炅(光義)
母:元徳皇后 李氏
妻:楚國夫人 馮氏

子供:趙允升、趙允言、趙允成

彼が生きたのは宋の2代 太宗の時代です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

965年。東京開封(現在の河南省開封市)で生まれました。

最初の名前は徳崇(とくすう)

父は北宋の2代皇帝 太宗 趙炅。

母は元徳皇后 李氏。

元佐(げんさ)は長男です。同母兄弟に趙恒(真宗)がいます。

若い頃は頭脳明晰で太宗 趙炅に似た体つきをしていました。

13歳のとき、父親と一緒に郊外に狩りに行きました。太宗はウサギを見つけると趙元佐(げんさ)に「撃ってみよ」と命令。趙元佐は一発で兎を仕留めました。その場に同行していた契丹の使節は驚いたといいます。

太宗 趙炅の太原、幽州への遠征にも同行しました。

太平興國年間には東門内にある邸宅で暮らしていました。

検校太傅などを務め「衛王」の称号が与えられ。中書も兼任しました。若くして「王」の爵位を与えたので太宗の期待も大きかったことがわかります。

「東宮」に移り住み名前を徳崇から元佐(げんさ)に変えました。東宮で暮らすということは後継者の扱いをうけていることになります。

検校太尉になり「楚王」の称号が与えられました。

親しかった叔父が処分される

太平興國7年(982年)。太宗は秦王 趙廷美が謀反を起こそうと疑い、趙廷美を降格、涪陵に流罪にしました。

皇太后の遺言で太宗の次は太宗の弟が継ぐことになっていました。だから太宗がどんなに趙元佐を後継者にしたいと思っても皇太子に任命できなかったのはそのためです。

詳しくはこちらを御覧ください。
・金匱之盟:宋太宗 趙炅の疑惑の即位

太宗は自分の息子にあとを継がせるため、弟を排除したのでした。

ところが趙元佐は趙廷美とは親しくしていました。趙元佐は仲のいい叔父が証拠もないのに突然降格になったのを知り驚きました。趙元佐は叔父には謀反の意思がないと信じています。

そこて趙廷美の処分を止めるように父に言いました。でも太宗は趙元佐の言い分を聞きません。

趙廷美は流刑先でうつ病になり死亡しました。その知らせは都にも届き、趙元佐は叔父の死を知りました。

 

おかしくなって後継者から外される

趙元佐は叔父の死を知ると突然、気が狂ったかのようになって小刀で使用人傷つけました。

太宗は息子の様子を心配して医者を呼んで治療させました。趙元佐の状態はいったんはよくなり太宗は喜び、世の中に恩赦を行いました。ところがまた再発。趙元佐の精神状態はおかしくなって人を傷つけるようになりました。

雍熙2年。重陽節の宴が開かれました。太宗は趙元佐の様子を気にして出席はさせませんでした。

その日の晩、趙元佐のもとに弟の趙元佑が会いに来ました。趙元佑は異母弟です。ここで趙元佐は趙元佑に何か言われたのでしょう。趙元佐と話していた趙元佑は「お前たちは宴会に出て射撃もやっていたな。でも私は参加していない。私は父に見捨てられただ」と嘆きました。

そしてその日の夜。趙元佐は酔っ払うと宮殿に火をつけました。幸いにもすぐに見つかって消火したので大火事にはなりませんでした。

趙元佐の行いを知った太宗は激怒。趙元佐を逮捕すると庶人に落として均州に流罪にしました。

でも大臣たちがとりなして太宗を説得。太宗は黄山を移動中の趙元佐を都に呼び戻すと南宮に住まわせました。でもこの事件で後継者からは外されました。

真宗 趙恒が即位後。趙元佐は楚王に復活。役職も与えましたが、趙元佐は体調が悪いと言って家に留まり、朝廷には出てきませんでした。真宗はそんな趙元佐を罰しませんでした。

天聖5年(1027年)。楚王 趙元佐が死亡。享年62。

趙元佐の心の病は演技?本当?

太宗 趙炅(趙光義)は自分が皇帝になるために母の遺言を偽造。父の息子から皇帝の座を奪ったと疑われています。太宗 は兄弟を粛清。甥に少しでも怪しい動きがあると死に追い込んでいます。

太宗は自分の息子に継がせようとしました。趙元佐は父の思惑を知り、後継者争いの恐ろしさを知っておかしくなったのかもしれませんし。狂ったふりをして後継者争いから逃れようとしたのかもしれません。

というのも。庶人に落とされてから、楚王に復帰してからの趙元佐は問題なく暮らし。表舞台に出るのを意図的に避けていました。

しかし今となっては趙元佐が本当に狂っていたのか、ふりをしたのかはわかりません。

最終的に弟の趙恒(真宗)が皇帝になりましたが。真宗の不甲斐なさを思えば趙元佐が皇帝になったほうが良かったのでは?とも思えます。でも趙元佐にも心の弱さがあったのかもしれません。

 

テレビドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:肖陽
このドラマでは太宗は三皇子の趙恒を一番可愛がっている設定。趙元佐が作為的に悪く描かれています。

 

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