宋王朝の後宮には大勢の人たちがいました。皇后を頂点に多くの側室や女官・侍女たちが働いています。
秦漢隋唐に比べると宋はいまいち影が薄いです。でも宋を舞台にした中国ドラマも幾つか放送され。宋の後宮や側室の順番はどうなっているのだろう?と不思議に思う人もいるかも知れません。
宋の後宮はほぼ唐の制度を受け継いでいます。
だから側室の称号や数も唐とほぼ同じです。唐は周辺国の制度の参考になりましたが。その後の中華王朝の基礎にもなりました。
でも全く同じではなく違う部分もあります。
宋には北宋と南宋があります。領土の広さ首都の場所は違いますが。朝廷や後宮の制度はほぼ同じです。
わかりづらい宋王朝の側室たちの称号とその順番を紹介します。
ドラマを見るときの参考にしてください。
正室
皇后
皇帝の正妻。
中宮、正宮とも呼ばれます。皇后の住む宮殿が宮廷の中央にあったからです。
皇后は一人だけです。儒教社会は一夫一婦制が建前なので。皇帝の妻は皇后だけ。側室は臣下の扱いです。
内命婦(後宮の女性)・外命婦(臣下の妻)を管理する最高の地位です。
「陰陽思想」では男が陽、女が陰とされ。皇帝が男の代表で陽、皇后が女の代表で陰の気を象徴すると考えられました。
皇帝の妻としての立場と、女性の組織(後宮)をまとめるトップとしての役目があります。側室と比べると遥かに責任が重い立場です。
ですが。宋は隋唐よりも皇帝の独裁が強いこと。儒教思想では女性の地位が低いので、皇帝の思惑で簡単に廃位できます。意外と皇后の地位は不安定です。
以下は側室の称号です。
側室・妃
品階:正一品
貴妃、淑妃、徳妃、賢妃
四人の中では貴妃が一番偉いです。皇后がいないときは貴妃が皇后の代役を務めます。唐時代と同じ。
それぞれ一人ずつ任命します。
品階の差はありません。全員「正一品」です。同じ時期に同じ称号の人が二人以上存在することはありません。必ず四人任命しなければいけないなんてことはなく。妃が四人以下のときもあります。
四妃の他にも仁宗時代には「宸妃」がありました。仁宗の生母・李氏のために特別に用意した称号です。他に宸妃に任命された人はいません。
側室・嬪
品階:正二品
太儀、貴儀、淑儀、淑容、順儀、順容、婉儀、婉容、昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛
嬪は妃に継ぐ2番めに地位が高い側室。一人ひとり与えられる称号が違います。
隋・唐時代は最大9人でしたが。
3代 真宗~4代 仁宗時代に太儀、貴儀、淑儀、淑容、順儀、順容、婉儀、婉容を追加。17に増えました。真宗時代には従一品。仁宗時代に正二品になりました。
太儀、貴儀、淑儀、順儀、順容は現役の皇帝の側室の称号として使われることはなく。先帝や過去の皇帝の側室に与える名誉称号です。
現役の皇帝の側室に使われる称号で多いのは 婉儀、婉容、昭儀です。
正三品~正五品の側室
婕妤(しょうよ)
品階:正三品
嬪の次に地位の高い側室。
「婕」は(皇帝の)恩恵を受ける。「妤」は(皇帝を)助ける。という意味。
唐では「嬪」の下のランクに「婕妤」を設けました。
唐王朝以後も「婕妤」の地位はありました。清王朝では廃止になります。
美人
品階:正四品
古代中国や越国(ベトナム)で側室に使われた称号。
婕妤の下、才人の上。三国時代の魏の時代から側室の称号として使われるようになりました。元朝時代に廃止。
中国の文献で◯◯美人と書いてあっても褒め言葉や愛称で「美人」を使ってるときもあるので、称号なのかよくわからないこともあります。
才人
品階:正五品
唐では女官の称号としても使われましたが。宋では側室の称号。
貴人
品階:正五品
漢~北魏時代にはあった称号ですが、隋唐にはありませんでした。宋でも2代 太宗まではありません。
3代 真宗の時代に宋でも使われるようになった称号。
4代 仁宗の時代には無視され、6代 神宗の時代に復活。
朝鮮や越南(ベトナム)にも貴人の称号はあります。宋の影響です。
下級の側室
宝林・御女・采女
隋唐時代には下級の側室として宝林・御女・采女がありましたが。宋では廃止されていました。
北宋末期の微宗の時代に宝林・御女・采女が復活しました。でもその後は使われていません。
郡君
唐では妃嬪の母や上級役人(四品以上)の母に与えられる称号でした。
宋朝では上級役人・大将軍の母に与えられる称号。
北宋の後宮では低級の側室、親王の側室に与えられる称号にも使われました。
県君
唐では三品側室の母や中級役人(五品)の母に与えられる称号でした。
宋朝では役人の母や正室に与えられる称号。
北宋の後宮では低級の側室に与えられる称号にも使われました。
地位の低い家柄出身の側室は○君から始まることが多いです。
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