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張貴妃(温成皇后)宋仁宗の寵愛を最も集めた側室

北宋 仁宗正室側室 4.2 宋の皇后・側室・公主

張貴妃(温成皇后)は宋(北宋)の第4代皇帝 仁宗 趙禎の側室。

生前の最高位は貴妃。

死後、皇后の称号が与えられました。

仁宗 趙禎が最も寵愛した女性です。仁宗は張貴妃を皇后にしたいと考えましたが、すでに曹皇后がいたことと重臣たちの反対で実現しませんでした。でも仁宗の想いは強く張貴妃の死後に追封という形で実現しました。

ドラマでは悪役として登場することも多いのですが、本当に悪女だったのでしょうか?

史実の張貴妃(温成皇后)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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張貴妃(温成皇后)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1024年
没年月日:1054年

姓 :張(ちょう)氏
名称:不明

国:宋(北宋)
地位:郡君→才人→修媛→美人→貴妃→皇后(追贈)
称号:温成皇后

父:張堯封(追封:清河郡王)
母:曹氏

大伯父:張堯佐
夫:仁宗

子供: 安壽公主、寶和公主、唐國公主

彼は北宋の4代皇帝 仁宗の寵妃です

日本では平安時代になります。

 

父が死んで歌舞女になる

1024年に河南永安(現在の中国河南省鞏県)で誕生。

父は 張堯封。役人でした。
母は 曹氏。

張氏は次女でした。

父の張堯封が病死。母の曹氏は義兄の張堯佐に助けを求めましたが、張堯佐は遠いことを理由に拒否。

昔の中国では未亡人が一人で子を育てながら生きていくのは非常に難しいです。そのため多くの人が再婚しました。娘がいては再婚できなかったのでしょう。曹氏は娘たちを斉國大長公主府に売りました。

張氏は斉國大長公主の屋敷で歌や踊りを教えられ歌舞女(歌って踊る女)になりました。

 

宮中に入って仁宗を魅了

張氏が8歳のとき。張氏は姉妹とともに大長公主に連れられて宮中に入りました。張氏は宮女の賈氏に育てられました。

あるとき張氏は宮中の宴で踊りを披露しました。すると、仁宗は美しく優雅な踊りの張氏に魅了されるのでした。

張氏は頭がよく多才多芸、口数が巧みで、特に仁宗の心を読み取るのが得意でした。張氏は仁宗に深く愛され、清河郡君の称号を与えられました。

康定元年(1040年)10月。彼女は才人に昇進。このとき張氏は16歳。仁宗は30歳でした。

 

子を失う

康定元年(1040年)。長女・安壽公主が誕生。

慶曆元年(1041年)12月。張氏は「修媛」に昇進しました。

慶暦2年(1042年)。安壽公主が死亡。享年3歲。
次女寶和公主が誕生。

慶曆3年(1043年)。次女寶和公主が死亡。
立て続けに二人の子を失って気落ちしたのか張氏は病気になりました。「私はこの地位にふさわしくありません。美人にしてくだい」と訴えて認められ。「美人」に降格になりました。

慶暦4年(1044年)。唐國公主が誕生。
慶暦5年(1045年)。唐國公主が死亡。

 

兵士たちの反乱で手柄

慶歴8年(1048年)1月。夜中。仁宗と曹皇后が寝殿に滞在していると衛兵が暴れだしました。

仁宗は騒ぎに気が付き様子を見ようとすると。曹皇后は「危ないのでむやみに動かないようにしないでください」と仁宗を止めて宦官や宮人たちを集めて宮殿の門を守らせ消火活動をさせたり反乱鎮圧を行いました。

このとき張美人は仁宗のもとに駆けつけて仁宗の側にいて守りました。

事件の後。仁宗は張美人の献身ぶりに感激。

でも仁宗は曹皇后には感謝するどころか曹皇后がこの騒ぎを仕組んだのではないかと疑います。曹皇后を廃して張貴妃を皇后にしようとしましたが、大臣たちが反対して実現しませんでした。

 

貴妃になる

慶暦8年(1048年)。張美人は「貴妃」になりました。張氏は短い期間で側室の最高の地位になったのです。

 

張貴妃が曹皇后の馬車を借りようとする

地位が急に高くなった張貴妃は思い上がったのでしょうか。

張貴妃は「皇后の馬車を借りて外出したい」と言いました。驚いたことに曹皇后は皇后の馬車の使用を許可しました。

でも仁宗が気がついて「国の物や儀式には規則には順序がある。側室が皇后の格式で外出したら宮中から批判されるぞ」と、張貴妃に言い聞かせました。

張貴妃は不満でしたが仁宗の言うことには従いました。

 

張貴妃を皇后にしたかった仁宗

宋仁宗は生涯のパートナーとして張貴妃を皇后にしたいと思いました。でもすでに曹皇后がいます。重臣たちが反対しました。

かといって父・真宗が行なったように”他の側室の子を劉氏の子にして劉氏を後継者を産んだ功績で皇后にする”というヒドイことはできません(そう考えると子を失った郭皇后が直後に死亡したのも自然ではなかったかも知れません)。

また張貴妃は曹皇后と違って実家の地位が低いです。朝廷での力はありません。そこで仁宗は張貴妃の親戚(叔父)の張堯佐を高い地位につけ力を持たせ、曹皇后を廃后にして張貴妃を皇后にしようとしました。

張堯佐とは、張貴妃の父が死んだ時に援助を断ったあの張堯佐です。でも張貴妃は幼かったので直接は知らなかったかもしれませんし。他に利用できる者がいないので、張貴妃も張堯佐の昇進を望みました。

かつて自分を売った夫を臣下にしてこき使った劉娥もそうですが、利用できるものは何でも利用する。そして出世したら親戚が増える・疎遠になっていた親戚が近づいてくるのも中国・朝鮮の社会です。

ところが張堯佐は職権濫用。私利私欲を追求して監察御史(役人の監視をする役職)から批判を受けました。

仁宗は張堯佐の官職を解任するしかありません。

死後。皇后になる

皇佑6年1月8日。張貴妃は32歳で病死しました。

仁宗は彼女を失い、非常に悲しみました。

仁宗は生前の彼女を皇后にすることは失敗しましたが。諦めませんでした。死者に称号として贈るだけなら現役の皇后を廃する必要はありません。重臣たちは反対しました。でも廃皇后にするのに比べると反対は激しくないので、仁宗は反対を押し切って皇后に追封(死後に任命すること)。「温成」の諡を与えました。

さらに温成皇后のための園陵が建立され、宗廟に祀られました。彼女の3世の先祖も温成皇后陵に附葬されました。側室だった女性にここまでするのはかなり異例のことです。

 

似た者同士

 

仁宗 趙禎の父・真宗 趙恒は若いころ、売りに出されていた人妻(中国では生活に困ると娘だけでなく妻を売ることがありました)の劉氏(章献明粛皇后:民間伝承では劉娥)に一目惚れ。父・太宗 趙炅の反対を押し切って15年間も匿いました。親がいなくなると後宮にいれて側室にして最終的に皇后にしました。

章献明粛皇后は庶民出身。幼い頃に芸人一座に入れられて芸や踊りを学び。職人と結婚しましたが、真宗 趙恒の妾になりました。離縁した元夫は後に臣下にして手先として使っています。

張貴妃と章献明粛皇后の境遇は似ています。

真宗は、名門の正妻よりも庶民出身の側室を気に入って皇后にしたいと考えました。真宗と仁宗も似ています。

仁宗は生母が章献明粛皇后ではないと知った後。章献明粛皇后が選んだ郭皇后を廃し、劉皇后派の臣下を左遷しました。でも仁宗が選んだのは育て親の章献明粛皇后に似た境遇の張貴妃だったのは皮肉です。

 

テレビドラマ

孤城閉 2021年、中国 演:王楚然 役名:張妼晗
 ドラマではヒロインに陰謀をしかける典型的な悪役として登場。史実では仁宗と曹皇后は親しくはありませんでしたが。ドラマでは仁宗が曹皇后がある程度は分かり会える設定なので。そのぶん張妼晗が悪い女として描かれています。

 

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