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董淑妃(董貴妃)は宋仁宗の自殺をやめさせた侍女だった

北宋 仁宗正室側室 4.2 宋の皇后・側室・公主

董淑妃(とうしゅくひ)は北宋の第4代皇帝 仁宗 趙禎の側室です。

死後に貴妃になったので歴史上は董貴妃ともいいます。

仁宗 晩年の側室。寵愛していた張貴妃の死後、側室になりました。
もともとは宮中で仁宗に仕える侍女でした。

仁宗が自殺未遂をしたところ、それを派遣した董が救いました。それ以来、仁宗の寵愛をうけて側室になりました。

史実の董淑妃はどんな人物だったのか紹介します。

 

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董淑妃の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1062年

姓 :董氏
名称:不明

国:宋(北宋)
地位: 聞喜縣君→才人→婕妤→充媛(病危)→婉儀(追贈)→淑妃(追贈)→貴妃(追贈)

父:不明
母:不明
夫:仁宗 趙禎

子供:皇九女(福安公主)、皇十一女(永寿公主)、皇十三女(楚国公主)。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。
両親も詳しくはわかっていません。

いつ入宮したのかは不明ですが。董氏は宮女になり仁宗の侍女をしていました。

嘉祐元年(1056年)には張貴妃(温成皇后)などが亡くなり、宋仁宗は子供がおらず、大きなプレッシャーと混乱に苦しんでいました。

悩んだ末に仁宗は自殺をしようとしました。すると董氏によって発見され、董氏が手で剣を奪い取りました。そのとき董氏は自分の指を切り落としてしまうほどの大怪我をしました。

中国や韓国のテレビドラマにはよく剣を素手で握る場面があります。でもあんなことをしたら、包帯で巻くくらいの傷ではすみません。刀剣の種類にもよりますが、よく切れる刀剣なら本当に力をいれれば指は切れます。

仁宗はそこまでして自分を救った董氏の献身さに心を打たれました。このあと仁宗は董氏を寵愛するようになります。董氏は「聞喜県君」の称号を与えられました。

嘉祐4年(1059年)。董氏は第九皇女(福安公主)を出産。才人(五品)に昇進。

嘉祐5年(1060年)。第十一皇女(永寿公主)を出産。宋仁宗は彼女を美人(四品)にしようとしましたが董氏は辞退。代わりに彼女の父親に官職を授与するように懇願しました。仁宗はこれをみとめました。

 

嘉祐6年(1061年)。第十三皇女を出産しましたが早世。楚国公主に追封されました。

嘉祐7年(1062年)。董婕妤は重病になり充嬪(正二品)の称号が与えられましたが、すぐに亡なりました。

後に「婉儀」と追贈され、さらに後に「淑妃」と追贈されました。

仁宗はさらに彼女を格式の高い葬儀を行い、もっと高い諡号を授けるつもりでした。でも司馬光が反対。仁宗の希望は叶いませんでした。

元符3年(1100年)4月。宋徽宗が即位すると「貴妃」に追贈されました。

 

 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:洪士雅 董氏。
役名:董秋和 演:陸妍淇
テレビドラマ版「孤城閉」では董淑妃の役割は、側室の董氏と内人の董秋和に分けられています。

董秋和は尚服局内人になり、一時期仁宗のそばに仕えますがます。原作小説と違い、テレビドラマ版「孤城閉」では側室になりません。

 

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