阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ)は百済の王子。
聖徳太子の肖像画を描いたという伝説を持つ人物ですが、その生涯は謎に包まれています。
百済の史料には名前が見当たらず、日本に渡った後も詳細な記録は残されていません。聖徳太子との出会いや、肖像画の真偽など様々な謎を紹介します。
韓国ドラマ「ソドンヨ」に登場する阿佐太子にも登場。ドラマでどのように描かれるかも紹介します。
阿佐太子の史実
プロフィール
姓:扶餘
名:不明
称号:阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ))
国:百済
生没年
生年月日:?
没年月日:?
彼が生きたのは百済の27代国王 威徳王の時代。
日本では飛鳥時代 推古天皇の時期になります。
家族
母:不明
妻:不明
子:不明
阿佐太子の生涯
阿佐太子の(あさたいし、アジャテジャ)
父は百済の第27代国王・威徳王。
母は不明。
「三国史記」など朝鮮半島の記録には阿佐太子の名前は出てきません。
日本に来た阿佐太子
「日本書紀」によると
「日本書紀」
と描かれています。
このときの百済王は威徳王なので、阿佐太子が威徳王の息子だと分かります。
なぜ阿佐太子は倭国に行ったの?
百済は475年に高句麗に攻め込まれて首都・漢城が陥落、蓋鹵王が死亡。王族の多くも殺害され、一度は滅びかけました。武寧王は倭の援助もあり国力を回復しましたが、聖王の死と新羅の成長によって再び百済は窮地に陥ります。
そこで威徳王は倭に救援を求めました。阿佐太子の派遣もそのためだったと思われます。
聖徳太子は外交の責任者なので百済から来た阿佐太子と会い、いろいろと話を聞いているでしょう。
救援要請を受けた倭(ヤマト)では推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子が軍を派遣するか検討。推古天皇は新羅征討軍の派遣を決定。聖徳太子の弟・来目皇子と当摩皇子を将軍に任命しました。しかしなぜかトラブルが続いて派遣は中断します。
もしかすると新羅の妨害があったのかもしれません。
百済と倭国の協同作戦は実現しませんでした。その後百済は滅んでしまい百済の記録の多くは失われました。
高麗時代にまとめたれた「三国史記」も新羅出身の者が編纂しているので百済の記事は少なめ。新羅が倭国と敵対していたので「三国史記」には倭国との協力は全く書かれていません。
その結果、阿佐太子が王につけなかったこともあり。阿佐太子の存在は朝鮮半島では抹殺されてしまいました。
王位継承の謎
日本や韓国でも阿佐太子と呼ばれますが、彼が王位継承者だったというはっきりとした記録はありません。
威徳王の没後、王位は威徳王の弟の恵王に移っています。阿佐太子が帰国して無事であれば阿佐太子が即位しているはずですが。朝鮮半島の史料には記録がありません。もしかすると百済で政変があり、阿佐太子が即位できなくなり。王の座が恵王の家系に移ってしまったのかもしれません。
最後は不明
その後、阿佐太子がどうなったかはわかりません。いつ亡くなったのかもわかっていません。
百済では威徳王の後、威徳王の弟の恵王が即位。その後は法王、武王と代々 恵王の一族が王になっています。
阿佐太子の家系図
でも中国北朝の歴史書「北史」には武王は威徳王の子と描かれているので。阿佐太子と武王が兄弟の可能性もあります。
聖徳太子の肖像画の作者?
阿佐太子は聖徳太子の肖像画を描いた人物という説があります。
この絵ですね。
この聖徳太子像は昭和の時代に紙幣の肖像画にもなりました。現代では聖徳太子を描いた絵ではいちばん有名です。
隣にいる童子は左が弟の殖栗皇子、右が息子の山背大兄王とされています。
この絵の由来には諸説あります。
その中の一つに、阿佐太子が聖徳太子と会った時の様子を描いたものだ。というのがあります。でもこの説は法隆寺に関わった鎌倉時代の法隆寺の僧侶が幾つかある説のひとつとして言ったもの。
なので、阿佐太子がこの絵を描いたという記録はありません。
現代ではこの絵は聖徳太子の没後に太子信仰が高まった飛鳥時代後期~奈良時代に描かれたものだろうと言われています。なのでこの絵の作者は阿佐太子ではないのですね。
ただし。阿佐太子は聖徳太子が会った外国人としてはけっこう知られていたようで。平安時代には聖徳太子と阿佐太子が会う場面を絵にしたものが作られています。
テレビドラマ・ソドンヨの阿佐太子
薯童謠(ソドンヨ)
SBS、2005年。 演:チョン·ジェゴン 役名:阿佐(アジャ)太子
韓国ドラマ「薯童謠(ソドンヨ) 」にも阿佐太子は重要な人物として出てきます。
主人公・チャン(後の武王)が山中で出会ったのが倭国から戻ってきたばかりの阿佐(アジャ)太子。
船で遭難したところを聖徳太子に助けられ倭国で保護を受けていました。帰国後は王位継承者として自身のないところを見せていましたが。チャンたちと出会い、後継者としての自覚を強く持つようになります。チャンも阿佐太子に惹かれて、太子を支えました。
劇中でチャンの兄だと判明。
しかし王位を狙うプヨ・ソン(後の法王)によって殺害されてしまいます。
阿佐太子の依頼で作った刀は何?
第8話で阿佐太子が聖徳太子から強力な武器の制作を頼まれるエピソードがあります。そこでチャンたち天の峠学舎が片刃の剣(刀)を制作しました。
この刀は何でしょうか?いくつか候補を考えてみました。
- 七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)
百済から日本に来た刀剣で一番有名なのは七支刀。ソドンヨのオープニングにも映っていますが。実はこれが作られたのは阿佐太子よりも200年以上も昔の近肖古王の時代。なので七支刀はありえませんし、形が違います。 - 片刃の刀剣(直刀)
ドラマより古い弥生時代後期に中国大陸から日本に伝わっています。 - 大刀契(だいとけい)
平安~南北朝時代ころまで皇室にあった宝剣。百済から伝わったとされます。時期や伝来ルートは不明。皇室の宝剣に認定されたのは平安時代といわれます。亡命王族の百済王氏から献上されたという説もありますが、それは百済滅亡後。なのでドラマの刀が大刀契の可能性は限りなく低いですし韓国でも知られてないでしょう。 - 日本刀
湾曲した長い刀(太刀=日本刀)は平安時代に日本で独自に誕生しました。朝鮮半島には湾曲した長い刀は17世紀に日本刀が伝わるまでありません。
というわけでチャンたちが作った刀が何なのか謎です。単に殺傷力の強い刀という意味でしょうか。
でも、何が言いたいか察しはつくのです。
「日本刀の起源は韓国にある」と言いたいのだと思います。チャンとモンナス博士が作った刀は日本刀にそっくりですし、硬い鉄で歯を作り軟らかい鉄で折れにくくするという組み合わせは日本刀と同じ。
でも上に書いたように直刀は弥生時代に古代中国から伝来。鉄製の刀の国産化は古墳時代、湾曲した太刀(日本刀)は平安時代に日本独自に進化。
飛鳥時代に日本の刀が変化したことはありませんし、日本刀と百済とのつながりはないのですね。
それに百済で日本刀と同じ物が作れたのなら、その後の百済や朝鮮半島にこのタイプの刀があってもいいはずですが、ありません。
というわけで、チャンたちの刀制作は史実とは関係ないドラマオリジナルのエピソードなのです。
まとめ
阿佐太子は百済の威徳王の王子。推古天皇の時代に日本へやってきました。聖徳太子との出会いや、聖徳太子の肖像画を描いたという説で知られていますが、その生涯については多くの謎が残されています。
阿佐太子が百済に戻ったのか、日本に残ったのか、そしていつ亡くなったのかは不明です。また王位継承者だったという確証もありません。
聖徳太子の肖像画は阿佐太子が描いたという説もありますが、現在の研究では飛鳥時代後期~奈良時代に描かれたものと考えられています。
阿佐太子の存在は、古代日本と百済の交流で重要な立場にありますが、その実像は解明されていません。今後研究が進んで新たな事実が明らかになることが期待されますね。
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