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威徳王の史実:新羅と高句麗に悩まされた百済王の生涯

威德王 2 百済

威徳王(いとくおう、ウィドクワン)は百済の第26代国王。聖王の長男として生まれ、新羅との激しい戦いや、日本、隋との外交など、波乱に満ちた生涯を送りました。

威徳王は新羅との戦争で父を亡くし、自らも多くの苦難を経験しました。しかし百済の存続のために戦い続け、仏教文化の普及にも尽力しました。

史実の威徳王はどのような人物だったのか紹介します。

 

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威徳王の史実

プロフィール

名前

姓:扶余、扶餘(ふよ、プヨ)
名:昌(しょう、チャン)
称号:威徳王(いとくおう、ウィドクワン)

国:百済(南夫余)

生没年
生年月日:525年
没年月日:598年12月
在位期間: 554 – 598年。
在位:45年

中国の歴史書「隋書」や「日本書紀」では「余昌」の名で登場します。

同時代の主な人物()内は在位年。

高句麗:陽原王(545-559年)、平原王(559-590年)、嬰陽王(590-618年)
新羅:真興王(540-576年)、真智王(576-579年)、真平王(579-632年)

北斉:後主(565-576年)
北周:武帝(560-578年)、宣帝(578-579年)
隋: 文帝(581-604年)
陳:宣帝(568-582年)、後主(582-589年)

日本:欽明天皇(539-571年)、敏達天皇(572-585年)、陽明天皇(585-587年)、崇峻天皇(587-592年)、推古天皇(593-628年)
日本では飛鳥時代になります。

威徳王の家族

父: 聖王

母:不明

子:阿佐太子、武王?

父は百済の第26代国王 聖王

母は不明。

子は「三国史記」には書かれていません。

中国北朝の歴史書「北史」には武王は威徳王の息子と書かれています。でも三国史記では武王は法王の息子となっています。どちらが正しいのかは分かりません。歴史研究者は法王の息子説を支持しています。

「日本書紀」には威徳王に王子阿佐(阿佐太子)がいると書かれています。

ドラマ「ソドンヨ」は「北史」と「日本書紀」の説を合体させた設定になってますね。

 

【こぼれ話】
日本の戦国大名・大内氏は威徳王の息子・琳聖太子が祖先だと主張していました。でもこれは李氏朝鮮に領地を要求したり交易するためのデマカセ。室町時代の武家は出自を偽ることが多いので信用できません。

 

威徳王の家系図

威徳王の家系図

威徳王の家系図

 

威徳王の生涯

おいたち:聖王の時代

525年に夫余昌(威徳王)は聖王の長男として誕生。

538年。夫余昌が13歳のころ。聖王は熊津(ウンジン、忠清南道公州市)から泗沘(サビ、忠清南道扶余郡)に遷都。国名を「南扶余」にします。正式な国名は「南扶余」ですが、この記事ではわかりやすく「百済」と書きます。

夫余昌は太子(王位後継者)になりました。

彼は太子のころから国の政治に参加、軍を率いて戦いに参加していました。

新羅が同盟を破る

太子の夫余昌は新羅との戦闘を主張するなど血気盛んな人、それだけでなく自ら軍を率いて戦う勇敢な王子だったようです。

553年。旧暦7月。新羅が百済との同盟を破って高句麗と同盟。漢江流域を占領しました。

夫余昌は領地奪回のため戦いを主張しましたが受け入れられません。

聖王は使者を日本(当時は倭(やまと))に派遣して援軍要請する一方。新羅に王女を嫁がせ和睦しようとしましたが、新羅は拒否しました。

夫余昌が戦場に出て兵たちとともに戦う

旧暦12月。夫余昌は軍を率いて高句麗領の百合野塞(場所不明)に砦を築きました。

夫余昌はそこで兵たちと寝食を共にしたり、攻めてきた高句麗軍と戦って撤退させます。(日本書紀)

なぜ夫余昌は出陣したのか?

この時期、漢江流域は新羅に占領されていましたが。実際に兵がいるのは砦や城などの要所部分のみ。当時の新羅の戦力なら占領地域すべてに兵を置くのは不可能。守りの手薄な場所を突破や攻撃するのは可能と思われます。

夫余昌が高句麗領に砦を作った目的は分かりません。

それとも過去に夫余昌が高句麗と戦ったエピソードが脚色されて日本書紀に載せられたのでしょうか。

実は現存する記録で夫余昌(威徳王)が登場する最も古いものが日本書紀の記事です。

日本書紀ではこの直後に夫余昌が新羅との戦いを主張して出陣、敗北する場面があります。ここで夫余昌が好戦的な人物だと表現するため夫余昌の武勇伝を挿入したのかもしれません。

聖王は新羅との戦いを決意

554年7月。倭(日本)から援軍が到着しました。

聖王は太子の夫余昌に倭軍、伽耶軍とともに新羅を責めるよう命令しました。しかし重臣たちは反対します。

夫余昌は重臣たちに

太子 夫余昌
「我らには大国(倭)がついている心配するな」
(日本書紀)

と言ってなだめると、新羅に向けて出陣しました。

管山城の戦い

新羅・倭・伽耶連合軍出撃

夫余昌は先鋒に立って管山城(忠清北道玉川)攻撃を指揮しました。管山城は新羅によって新たに占領された漢江下流地域とつながる戦略的に重要な場所です。

12月9日。夫余昌率いる百済軍と倭国・伽耶軍は于徳と耽知管が率いる新羅軍を破り管山城を陥落させました。

聖王の出撃と最後

聖王は管山城が陥落した報告を聞くと管山城に向かいました。このとき聖王が率いたのは50人程度とされます。

あまりに少ない兵です。百済の主力部隊は夫余昌が率いていたので余力がなかった。聖王は最初から戦闘するつもりはなく、将兵の激励や慰労、占領した管山城の戦後処理のためだだったのかもしれません。

ところが聖王の出陣は新羅に知られてしまいました。管山城に向かっていた聖王は新羅軍の待ち伏せにあい捕らえられ処刑されてしまいます。

夫余昌の苦戦

夫余昌は管山城を陥落させたあと、連合軍を久陀牟羅に集結させて砦を築きました。

新羅の真興王は将軍 金武力を援軍として出動させます。

久陀牟羅の夫余昌は金武力率いる新羅軍に包囲され苦戦。夫余昌は筑紫国造(つくしのくにみやつこ)の援護でなんとか脱出に成功。しかし連合軍は新羅軍の掃討作戦にあってほぼ壊滅しました。

罪悪感で出家

夫余昌は助かったものの、苦しい立場です。

臣下の多くが新羅との戦争に反対していたので聖王と夫余昌は勝たなけれないけない戦いでした。でも百済は大敗。この戦いで聖王や百済、倭、伽耶の多くの兵が犠牲になりました。

百済軍の犠牲は1万とも29,600人ともいわれますが。どちらにしても多くの兵を失いました。この戦いの敗北で百済と新羅の力関係は逆転したとされ、以後は百済は衰退に向かいます。

夫余昌は弟の恵を倭に派遣、聖王の戦死を伝えました。

夫余昌は罪悪感に苦しみ出家を考えます。しかし臣下たちの説得で出家を思いとどまり、そのかわり100人の者を出家させました。

夫余昌は父のあとを継いで百済王に即位。このとき30歳でした。

 

威徳王の時代

夫余昌は百済王(威徳王)となりましたが、父の喪に服するために正式な即位式はすぐには行っていません。即位式を行ったのは3年の喪があける557年でした。

兵の多くを失い王の権威も失墜。貴族たちの発言力が高まります。それでも新羅や高句麗に対抗しなくてはいけません。王として厳しい出発になりました。

いきなり高句麗が攻めてくる

554年旧暦10月。聖王が亡くなってわずか3ヶ月で高句麗が攻めてきました。

高句麗軍は新羅の協力も得て一気に熊津城に迫りました。 熊津はかつての南夫餘の昔の都、軍事的にも重要場な場所です。

威徳王は百済の総力を出して辛うじて高句麗軍を阻止しました。

伽耶諸国滅亡

威徳王は伽耶と倭に使節を派遣。新羅への反撃を検討します。

561年旧暦7月。威徳王は新羅攻撃を命令。

日本書紀によれば、262年に倭の軍隊が任那や百済と協力して新羅を討とうとしました。しかし新羅に作戦を知られて敗北。日本書紀ではこの記事は任那滅亡後のこととされていますが。261年の戦いの可能性もあります。

百済軍も新羅の反撃にあって1千人の死者を出して敗北しました。

百済を破った新羅は勢いに乗って伽耶を攻撃。562年。最後まで残っていた大伽耶はあっけなく新羅に滅ぼされ伽耶諸国は滅亡しました。

以後、威徳王は倭にはあまり使節を送らなくなります。

聖王は倭の力を過信して大きな敗北を招きました。かつて倭は大きな武力を持っていて高句麗と戦い百済の独立を助けました。

でも今の倭はいくら援助してもなかなか援軍を送らないし、送ってきても大した兵力ではない。もうあてにはできない。

と威徳王は考えたのかもしれません。

積極的な中国外交

威徳王は軍事的に新羅に対抗するが難しいと考え、まずは高句麗を外交的に孤立させるために積極的に中華王朝への朝貢を行います。

577年、584年、586年には中国南朝の陳に朝貢。

577年、578年には中国北朝の北周に朝貢

572年には中国北朝の北斉に朝貢しました。

570年には北斉から「使持節、侍中、車騎大将軍、帯方郡公、百濟王」に任命され。翌年には「使持節、都督東青州諸軍事、東青州刺史」が追加されました。

威徳王は国力が回復したと思ったのか。577年(威徳王24年)。百済の東、新羅との境に出兵しました。しかし新羅軍に撃退されてしまいます。

日羅の派遣要請

威徳王は倭に対しては積極的な外交はしてませんでした。

ところが583年。敏達天皇は百済にいる日羅を派遣するよう要請してきました。

日羅(にちら)
百済の日系官僚。父は九州出身の靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。
阿利斯登は大伴金村に仕え、宣化天皇(536-539年)の時に任那防衛のために海を渡りそのまま現地で暮らしました。日羅は百済王に仕え百済で達率(だっそつ、百済で2番目に高い官職)という高い地位にありました。聖王は日系の役人を多く採用していました。

 

敏達天皇は朝鮮半島での戦いが膠着状態になったので百済で出世したという日羅を呼び寄せて何か名案を聞こうとしたのでしょう。

威徳王は日羅の派遣を嫌がりました。日羅は百済でも2番目の高位にある重臣です。百済の秘密が漏れるかもしれません。

でも威徳王は日羅の派遣を許可しました。ここで援助を断ったら新羅と戦うときに援軍が来てくれないと思ったのかもしれません。そのかわり百済の役人を同行させました。

日本の朝廷の重臣たちは日羅に名案はないか聞きました。すると。

日羅「内省を重視して国力を上げて武力を高めれば百済は服従するでしょう」
(日本書紀)

と答えます。

百済からみれば裏切り行為です。

もしかすると日羅は威徳王の倭を重視しない方針に不満、聖王時代のように百済と倭が親密な時代を懐かしんでいたのかもしれません。

日羅に付いて行った百済の役人は密かに日羅を暗殺。百済の役人は捕まり、日羅の縁者によって私的制裁を受けて殺されました。

日羅殺害の問題は外交問題には発展せず密かに処理されました。

日本に仏教関係の援助

こうして倭とは関係が冷えていたのですが。援助要請はやってきます。

584年。弥勒菩薩の石像を1体贈りました。

587年。倭では崇仏派が勝利して崇峻天皇が即位。

倭では百済から派遣された僧侶の提案もあって蘇我氏の主導で本格的な大寺院の建設が決まりました。それまで日本にはない大規模な寺院ですから百済の支援は必要です。

588年。威徳王は仏舎利と6名の僧侶、炉盤博士(鋳造の専門家)、瓦博士(瓦を作る専門家)、画家などを派遣しました。

この寺院が推古天皇の時代に完成した法興寺(飛鳥寺)です。

創建当時はこのような立派な寺だったと考えられています。

法興寺 再現模型

法興寺 再現模型

出典:wikipedia 法興寺

593年に推古天皇が即位すると597年に阿佐王子を派遣しました。阿佐王子がその後どうなったのかは分かりません。

なぜ威徳王は支援を行ったのか?

それにしても倭との協力にはやや慎重だった威徳王はなぜ、ここにきて協力する気になったのでしょうか?

それは百済を取り巻く環境が厳しいからです。

伽耶が滅び、新羅は百済より強くなりました。高句麗も敵です。半島最弱国に転落した百済が生き残るためには倭を味方にしておかなければいけません。

しかもこの時期、新羅が何度か倭に使節を送っていました。

百済より後になりますが、法興寺建設には高句麗も協力を名乗り出ました。高句麗は隋に脅されていたので、かつての敵だった倭と同盟しようとしていました。

新羅・高句麗が熱心に倭を味方にしよう・最低でも敵にしないようにと外交攻勢をかけていたので威徳王は危機感を持ったのでしょう。ここで倭が敵にまわれば百済は全方位敵に囲まれることになります。

そうなれば百済の滅亡は確実です。

そうするわけにはいかないので倭の援助要請には応えないといけなかったのです。

隋に接近

581年に隋が建国。すると威徳王はいち早く朝貢使節を派遣。隋の文帝から「上開府、儀同三司、帯方郡公」に任命されました。

589年。隋が陳を攻めたとき隋の軍船が牟羅國(済州島)に漂流しました。百済はこの船を修理して隋に使節を送り、陳を滅ぼしたことを祝いました。隋の文帝は喜んで勅令を出し、百済は遠いので毎年朝貢に来る必要はないと命じます。

高句麗を怒らせる

こうして威徳王は隋の文帝に近づき隋に高句麗攻撃を要請する機会をうかがっていました。

598年に隋と高句麗が戦争になると隋に使者を派遣。「高句麗は礼儀がなく傲慢な国だ」と非難。そして

威徳王
「もし隋が再び高句麗を攻撃するなら百済が軍を出します」
(三國史記·百濟本紀)

と提案。

でも文帝は高句麗を再び攻める余力がないと判断。威徳王の提案を断りました。

高句麗は百済が隋に高句麗を攻撃するようけしかけていると知り激怒。高句麗軍が百済に攻めてきました。百済は石頭城の戦いで三千人の兵が捕虜になってしまいます。

威徳王の最期

威徳王は最後まで百済や高句麗に悩まされ続けました。

598年12月。威徳王が死去。享年74歳。

弟の恵王が次の百済王になりました。

 

テレビドラマ

ソドンヨ SBS、2005年 演:チョン・ウク
ファラン KBS2、2016年 演:キム・ミンジュン

 

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