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高雲(こう うん)高句麗王族の血をひく北燕の皇帝

1 高句麗

高雲(こう うん)は高句麗出身の王族で、大燕の重臣でした。後に北燕の皇帝(天王)になります。

韓国ドラマ「太王四神記」や「広開土太王」では「コウン」の名で出てきます。 
コウンは太王四神記では後燕の将軍。「広開土太王」では後燕のスパイとして高句麗に入り込んでいるという設定です。しかし高雲が後燕のスパイとして高句麗で活動していたという記録はありません。

皇帝に即位した高雲は広開土太王の高句麗と良好な関係をつくりました。しかし家臣たちの反乱にあって暗殺されてしまいます。

高雲の国は正式な名前は「大燕」といいます。でも同じ名前の国がいくつもあるので現在では慕容氏の時代は前燕、後燕。高雲から始まる国を「北燕」と呼んで区別しています。

史実の高雲(こう うん)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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コウウン(高雲)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:409年

名前:高雲(こう うん)→慕容雲(ぼよう うん)→高雲
字(あざな):子雨
諡名:恵懿帝

父:高抜
母:不明

妻:李皇后

主に活躍したのは4世紀後半から5世紀初め。
同時期の王には高句麗の広開土太王

日本では古墳時代になります。おそらく応神天皇~雄略天皇のどれかの時代。

おいたち

高雲は高句麗の王族でした。

故国原王の時代。前燕の慕容皝が楽浪郡を攻め落としたときに高句麗の王族が前燕に連れて行かれました。そのときに祖父の高和も前燕に連行されて家臣になりました。一族は前燕や後燕に仕え続けました。

高雲は後燕の第2代皇帝・慕容宝に仕えました。

397年。後燕は北魏に攻められます。慕容宝は中山の城を捨てて龍城に逃れました。このとき次男の慕容会が北魏軍を撃退して手柄を立てます。もともと傲慢だった慕容会はつけあがり反乱を起こし慕容宝との戦いになりました。このときの戦いで高雲は慕容会を襲撃、逃げた慕容会は討たれます。

このときの功績が認められ、高雲は慕容宝の養子になって慕容雲に名を改めました。

高雲は口数が少なく、周囲からは愚鈍なやつと思われていましたが、後燕の将軍・馮跋(ふう ばつ)からは優秀な人物だと評価されて親しくしていました。

406年。第4代皇帝・慕容熙の時代。皇后・苻訓英の提案で高句麗を攻めました。後燕軍は大敗、慕容雲も矢を受け負傷しました。このとき慕容熙の残虐さに嫌気がして官位を返上して辞任します。

407年。日頃から慕容熙に不満を持っていた馮跋と馮素弗の兄弟が反乱を起こしました。

このとき慕容雲は馮跋兄弟に担ぎ出されました。

 

北燕の皇帝になる

馮跋たちの反乱は成功して慕容雲は「天王」に即位しました。天王とは皇帝の別名です。

このとき慕容雲は名前を高雲にもどしました。元号を「正始」にして囚人の赦免令をだしました。
反乱の中心人物、馮跋を侍中にとりたてます。

高句麗の広開土太王は、高雲が即位したことを知ると北燕に使者を送りました。高句麗の血をひくということで関係改善が見込めると思ったのでしょう。高雲も高句麗に使者を送り高句麗とは良好な関係を築きました。

慕容雲は即位したものの、権力は馮跋たちが握っていたので飾り物の君主でした。

これによって後燕は滅亡、北燕が始まったとされます。しかし慕容雲は「慕容」の姓をもっていたので後燕の最後の皇帝という説もあります。

408年。妻の李氏を皇后にしました。子の高彭城を太子にしました。

高雲は自分には徳がなく重臣たちをうまくまとめられないと思っていたので離班や桃仁を登用して内政を任せました。

409年。離班や桃仁が反乱を起こして高雲は殺害されました。即位して3年。短い即位期間でした。

反乱のあと馮跋は離班や桃仁を抹殺。その後、馮跋は北燕の天王になりました。馮跋は城にいたにもかかわらず離班や桃仁の反乱を止めなかったといわれます。その意図はわかりません。

馮跋は高雲に恵懿皇帝の諡を与えています。

テレビドラマ

太王四神記 MBC 2007年 演:チョン・ジェゴン
広開土大王 KBS 2011年 演:キム・スンス

 

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