李 倓(り たん)は唐の第10代皇帝・粛宗の皇子。
11代皇帝代宗・李俶(り しゅく)とは異母兄弟になります。
勇敢な皇子でしたが、宮廷内の権力争いに負けて自害してしまいます。
しかし後に代宗・李俶によって承天皇帝の名を与えられました。
史実の李倓はどんな人物だったのか紹介します。
代宗・李 倓の史実
生年月日:不明
没年月日:757年
本名:李 倓(り たん)
称号:建寧王
追号:承天皇帝
父:粛宗
母:鄭氏
正室:張淑女(追号:恭順皇后)
代宗は唐の10代粛宗の4男です。
日本では奈良時代になります。
孝謙天皇とほぼ同世代。同じ時代に生きた人物は吉備真備、阿倍仲麻呂です。
おいたち
父は皇太子の李亨(り きょう)。後の10代皇帝・粛宗です。産まれた年はわかりません。
母は鄭氏。どのような素性の人なのかはわかっていません。
李 倓は弓矢に優れた優秀な皇子でした。建寧王の称号を与えられられます。
安史の乱
755年11月。安史の乱が起こります。
年が明けて首都・長安に反乱軍が迫ってくると祖父・玄宗、父・李亨とともに都を脱出しました。李倓は父を守りながら移動しました。
馬嵬(現在の陝西省興平市)のあたりまできたとき。李倓(りたん)は反乱が起きたのは楊一族の横暴のせいだと主張。玄宗にたいして楊国忠たちを処刑するように要求しました。玄宗はそこで楊国忠と楊貴妃を処刑しました。
その後、玄宗は蜀へ避難しました。父の李亨も玄宗とともに蜀行きを希望しました。しかし李倓はこの地にとどまって反乱軍と戦うように言います。辺境の地を守る兵たちを力を合わせれば反乱軍と戦えると説得しました。父・李亨、兄弟の李俶は李 倓(り たん)の考えに賛成しました。
李倓は父の李亨とともに北へ向かい節度使(地方を守る軍)のいる霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)に到着しました。側近の李輔国の進言で李亨が皇帝に即位、粛宗になりました。玄宗の許可は得ていませんでしたが、反乱で既に力を失っていた玄宗は事後承認するしかありませんでした。玄宗は上皇になります。
このとき李亨は寵愛する張氏に皇后の位を授けると共に宝石の付いた立派な馬具を贈ろうとしました。しかし側近の李泌(りひ)はこの非常事態にそのような贅沢をすべきではない、兵たちに施しをするべきと訴え、李亨は張氏に贈り物をするのをやめました。李倓(りたん)は李亨の行いを公衆の前で称賛しました。ところがこの行いは張氏の李倓(りたん)への不満を高めてしまいます。
その後、粛宗は兵を整えて反乱軍を討伐しました。特に李倓(りたん)は勇敢で反乱軍との戦いでは何度も勝ちました。
自害を命じられる
王宮に戻った粛宗たちでしたが。皇后となった張氏とその信頼を得た李輔国が横暴になり、宮殿内の権力を独占するようになりました。
そこで李倓(りたん)は李輔国らを殺そうとしました。李泌(り ひ)は止めるように忠告しましたが李倓は考えを変えません。
ところが李輔国に先手をうたれてしまいます。「李倓(りたん)が皇太子の座を得るために李俶(りしゅく)を殺そうとした」と訴えられてしまいました。
李俶(りしゅく)と宰相の李泌(りひ)は李倓(りたん)は無罪だと何度も主張しました。粛宗自身も申し訳ないとは思いましたが、張皇后と李輔国の言葉を信じてしまいました。粛宗は李倓(りたん)に自害を命じます。
757年初頭。李倓(りたん)は父の命令で自害しました。
承天皇帝の名をおくられる
762年。李俶(りしゅく)が即位、代宗になりました。
代宗は李倓を尊敬していました。そこで不幸な運命をたどった李倓に「承天皇帝」、李倓の妻・鄭氏に「恭順皇后」の名を贈りました。
李倓は死後、皇帝の名を持つことになったのです。
ドラマ「麗王別姫」には李倓の妻として慕容林致(ぼよう りんち)という女性が登場しますが史実には存在しません。架空の人物です。
ドラマ
麗王別姫 2016年、中国 演:秦俊杰
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