韓国ドラマ「トンイ」を見たあなたはきっと主人公トンイの最期がどうなったのか気になってたのではないでしょうか?
ドラマの最終回では死んでしまうのではないかと思う人もいるかも知れません。でもドラマでは民に寄り添い自らの信念を貫いたトンイの穏やかな晩年が描かれ、はっきりと死ぬ場面は描かれませんでした。
史実の淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の死因ははっきりしていて、病気で亡くなっています。
この記事ではドラマ「トンイ」の最終回で描かれた最後と史実の淑嬪崔氏の死因を詳しく比較。
トンイの生涯の終わりかたを知ることでドラマをさらに楽しめるかもしれませんよ。
史実のトンイ(淑嬪崔氏)の死因は「病死」でした
実際の歴史ではトンイこと淑嬪崔氏(スクピンチェシ)は病気で亡くなっています。享年は数えで49歳(満48歳)だったとされています。
具体的な病名は不明
淑嬪崔氏は1718年5月に病気で亡くなりました。当時の記録には「薬がたびたび送られた」という記述はあるのですが残念ながら具体的な病名は残っていないのです。『朝鮮王朝実録』にもはっきりとした病名は記されていませんでした。
当時の平均寿命が40歳前後だったことを考えると、49歳という年齢は決して早すぎる死ではなかったのかもしれません。
宮廷の外にある私邸で最期を迎える
淑嬪崔氏は宮廷の外にある私邸で静かに息を引き取ったと伝えられています。なぜ宮廷ではなかったのでしょうか?
実は粛宗は淑嬪崔氏が病にかかった1716年に「私邸で療養するよう」に命じていたのです。
そのため彼女は3年間も私邸に留まっていたのでした。病が少しでも好転すればすぐに宮殿へ行こうとするほど彼女は誠実で敬意を忘れない人だったそうです。それだけ王の近くにいたかったのでしょうね。
残念ながら、淑嬪崔氏の病は回復せず。1718年3月9日昌義洞(チャンウィドン)の私邸で亡くなったとされています。
ドラマ「トンイ」最終回の死の演出は?

トンイ
ドラマ「トンイ」の最終回では史実とは異なる少し感動的な最期が描かれていました。
晩年は民に寄り添い続けました
ドラマでも主人公のトンイは宮廷を離れました。でも理由は違います。病気で宮殿を出たのでも、王命でもありません。自分の意志で「無力な民のために生きる」と強い決意をもって宮殿を出たのです。そしてその決意通り意志を貫く姿が描かれていました。
でも少し過労を匂わせる描写もありました。そこが史実の病に繋がる部分でしょうか?
ドラマでトンイが死ぬ描写はなし
ドラマではトンイの最期の場面は描かれていません。なのでトンイがどのような形で死んだのかはわかりません。
それでもトンイのドラマは最終的に「草原で国王の粛宗と再会」するという美しいラストシーンで終わりました。
これはトンイは安らかに亡くなったという描写なのでしょうね。
その後、場面が飛んで成長した英祖が淑嬪崔氏の墓の前でチョンス兄さんと一緒にいる場面が描かれます。なので最終回の時間軸のどこかで死亡しているのは間違いありません。
トンイ(淑嬪崔氏)はどんな人物?
史実の淑嬪崔氏は落ち着きがあり、とても物静かな人だったと伝えられています。喜びや怒りを顔に出すことがなかったそうです。
常に謙虚で周囲に優しく接したようです
国王の粛宗や王妃に仕える時は、朝早くから夜遅くまで心を込めて仕えていたようです。
他の側室や女官たちにも、驕り高ぶることなく穏やかに接したため、皆が彼女に好意を抱いたそうですね。粛宗も心の中では深く彼女を慈しんでいたようです。
仁顕王后やそのあとを継いだ仁元王后からも大切にされていましたが、淑嬪はさらにかしこまって丁寧な対応をしていました。あまりにも謙遜するので王妃も気の毒に思ったほどだと言います。やはり生まれの身分が低いのを気にしていたのでしょうか?
また淑嬪崔氏は人の短所を話すのを好みませんし、もし側に仕える者がそのようなことを言えばすぐに注意したので宮中の者たちが彼女を称賛したと伝えられています。
同族の出世を望まない謙虚な心
淑嬪崔氏の碑文によれば、淑嬪崔氏と同族で軍籍にあった者たちは淑嬪が昇進すると辞任したといいます。これは淑嬪の慎重な心遣いがさせたと言われています。彼女は自分の立場を利用して家族を優遇するようなことは決してしませんでした。
粛宗の治世は政争が激しい時代。王妃になっても安泰ではありません。淑嬪崔氏の一族は名家ではありませんから、できるだけ目立たないようにして争いに巻き込まれないようにしていたのでしょう。
粛宗は当初、梨峴宮(イヒョングン)を淑嬪の私邸とされていました。1711年には別の場所に替えることになりました。
淑嬪は国王が公費を節約したいと思っていたのを知り、快く邸宅を替えることにも不満な顔は見せませんでした。贅沢を好む人ではなかったのですね。
トンイと粛宗・晩年の関係性
粛宗とは晩年には会う機会が減っていました
ドラマではトンイと粛宗は最後まで親しくしていました。
でも、史実の淑嬪崔氏と粛宗は晩年には直接会う機会が減っていました。二人が面会したという記録も残っていないようです。
これは彼女が宮廷を離れて病気の療養に専念していたためと考えられます。でも粛宗が彼女の健康を気遣って薬を送っていました。
この頃には肅宗の寵愛は別の側室に移っていました。なので、淑嬪崔氏は寂しい思いをしたかもしれませんが、肅宗も無関心だったというわけではないようです。
最期を看取ったのは息子の延礽君(英祖)

ヨニングンの肖像画
淑嬪崔氏の最期は息子の延礽君(ヨニングン・後の英祖)の私邸・昌義洞(チャンウィドン)で迎えたようです。彼女は宮廷を離れて息子と同居していたので、息子が母の最期を看取ったと考えられています。
側室としての葬儀と墓所「昭寧園」
淑嬪崔氏は粛宗の当時の側室の中でも高い地位にありました。粛宗は淑嬪崔氏の葬儀を規則通りに行うよう命じました。彼女の棺は丁重に運ばれ、最高の供物が捧げられました。
淑嬪崔氏は側室ですので、王や王妃と一緒には葬られていません。格式も王妃のものよりは低いです。でも肅宗は淑嬪崔氏のための墓を造らせたので、一定の敬意はもっていたようですね。
淑嬪崔氏のお墓は英祖の手によって整備され、最終的に昭寧園(ソリョンウォン)と呼ばれました。現在の京畿道坡州市にあり。その場所は大切に保存されており歴史的な場所として多くの人に知られています。

淑嬪崔氏の墓
トンイの子供たちと朝鮮王朝への影響とは?
成人したのは後の国王「英祖」だけ
史実の淑嬪崔氏には3人の息子がいました。でも成人したのは後に朝鮮王朝の第21代国王となるヨニングン(英祖)だけでした。他の2人の王子は幼くして亡くなっています。
これは当時の乳幼児死亡率が高かったことを示していますね。
ドラマ「イ・サン」との深い繋がり
韓国ドラマファンなら知っている人も多いと思いますが、ドラマ「イ・サン」の主人公 正祖はトンイの息子 英祖の孫です。つまりトンイは正祖の曾祖母になるのですね。
このようにトンイの血筋は朝鮮王朝の重要な人物へと繋がっていました。彼女の存在が後の歴史に大きな影響を与えたことがよくわかります。
ドラマ「トンイ」と史実の比較表
ドラマ「トンイ」のトンイと史実の淑嬪崔氏の最期の比較をしてみましょう。
項目 | ドラマ「トンイ」 | 史実(淑嬪崔氏) |
---|---|---|
最期 | 民に見守られ安らかに息を引き取る | 宮廷外の私邸で病死 享年48歳(満年齢) |
晩年 | 宮殿を離れ民と共に暮らす | 宮廷を離れて息子と同居。病がち。民との交流記録は不明。 |
死因 | 明確は最期は描かれない。 | 病死。具体的な病名は不明。 |
場所 | ラストシーンは草原で粛宗と再会。象徴的な描写 | 宮廷外の私邸(昌義洞) |
史実の淑嬪崔氏は味方によっては、肅宗から冷遇されていたとも受け取れる扱いですが。ドラマでは宮殿を出たのを逆手に取って「民と共に生きた」という演出にしました。
最期もドラマではあえて臨終の場面を描かず、ぼやかすことで明るいトンイのドラマにふさわしい感動的なラストシーンを演出したのでしょう。
まとめ
ドラマ「トンイ」では主人公トンイの印象的なシーンで終わりました。
しかし史実でのる淑嬪崔氏の死因は病死だったとされています。48歳(満年齢)で夫の粛宗に先立って宮廷外の私邸で亡くなっていたのですね。
ドラマと史実には確かに違いがありました。
それでも、トンイや淑嬪崔氏が波乱の人生を生き抜き、英祖を朝鮮王朝の偉大な国王に育て上げた点は共通しています。トンイの人生と最期を知ることでドラマの感動だけでなく歴史の奥深さも感じていただけたのではないでしょうか。
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