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トンイの死因は?最終回で死んだのか史実とドラマを徹底比較

韓国ドラマ『トンイ』で気になるのは最終回で死ぬのか、史実の淑嬪崔氏の死因は何だったのかという点ですよね。史実上のトンイ(淑嬪崔氏)の死因は病死。1718年3月9日に昌義洞の私邸で死去と記録されています。ドラマの最終回では死は描かれませんが、息子の英祖が墓参りする場面があり死亡したことがわかります。

この記事では以下のことを紹介します。

  • トンイのモデル淑嬪崔氏の死因と享年
  • ドラマ『トンイ』最終回と史実の違い
  • 晩年の暮らしとお墓(昭寧園) 

 


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トンイのモデル 淑嬪崔氏 の死因

史実の淑嬪崔氏は病死

朝鮮王朝実録によれば淑嬪崔氏(トンイのモデル)は1718年(粛宗44年)に病気で亡くなっています。享年は49歳(数え年)でした。

淑嬪 崔氏卒。 上命禮葬等事, 依例擧行。

出典:朝鮮王朝実録・粛宗実録 粛宗44年3月9日

日本語訳:
淑嬪 崔氏が亡くなった。国王(粛宗)は礼葬などを慣例に従って執り行うよう命じた。棺の板を運び送らせ、祭祀に必要な物資を十分に送るよう命じた。

 

当時の朝鮮王朝実録には「薬がたびたび送られた」との記録が残っており、病気療養の様子が伝わっています。でも具体的な病名までは記されていません。

当時の朝鮮王朝における平均寿命はおよそ40歳前後だったとされるので49歳での死は短命ではありません。むしろ平均より少し長生きしたくらいです。

 

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ドラマ『トンイ』は最終回で死んだ?


トンイ

ドラマ『トンイ』を最終話まで見てもトンイが病気で亡くなる場面は描かれていません。そのため、「最終回でトンイは死んだのか?」と疑問を持つかもしれません。

ドラマでも主人公のトンイは宮廷を離れました。でも理由は史実とは違います。病気で宮殿を出たのでも王命でもありません。自分の意志で「無力な民のために生きる」と考えて宮殿を出たのです。そしてその意志を貫き、外知部として働く様子が描かれていました。

でも少し過労を匂わせる描写もありました。そこが史実の病に繋がる部分でしょうか?

 

外知部(ウェジブ)
李氏朝鮮時代に法律の知識がなく、漢字の読めない民に代わって法律の手続きを代行する人。ドラマでは現代の弁護士のように描かれることが多い。

 

ドラマでトンイが死ぬ描写はなし

ドラマではトンイの最期の場面は描かれていません。なのでトンイがどのような形で死んだのかはわかりません。

それでもトンイのドラマは最終的に「草原で国王の粛宗と再会」するという美しいラストシーンで終わりました。

これはトンイは安らかに亡くなったという描写なのでしょうね。

その後、場面が飛んで成長した英祖淑嬪崔氏の墓の前でチョンス兄さんと一緒にいる場面が描かれます。なので最終回の時間軸のどこかで死亡しているのは間違いありません。

 

淑嬪崔氏の晩年と最後

晩年には粛宗と会う機会が減っていた

ドラマではトンイ粛宗は最後まで親しくしていました。でも史実ではそうではなかったようです。

「朝鮮王朝実録」によると、淑嬪崔氏は晩年の1716年(康熙55年、粛宗42年)ごろから病気になりました。この年、彼女は宮廷を離れて漢城(現在のソウル)の昌義洞にある私邸に移り住みます。そこで療養生活を送りながら、息子の延礽君(ヨニングン、のちの英祖)と同居していたと伝えられています。

晩年の淑嬪崔氏は病気のために粛宗と会う機会が減り、宮廷からも距離を置くようになりました。でも息子の延礽君が常に母を支え、看病したとされています。

この間、淑嬪崔氏は3年間も私邸に留まっていたのでした。でも律儀な彼女は病が少しでも良くなれば宮殿へ行こうとするほどでした。それだけ王の近くにいたかったのでしょうね。

 

 

最期を看取ったのは息子の延礽君(英祖)

ヨニングン

ヨニングンの肖像画

でも残念なことに淑嬪崔氏の病は回復しませんでした。

1718年(康熙57年、粛宗44年)7月3日に彼女は昌義洞の邸宅で静かに息を引き取りました。享年49歳(数え年)。

このように、晩年の淑嬪崔氏は宮廷の華やかさから離れ、病と向き合いながら息子と過ごしました。彼女の最期を看取った延礽君は後に第21代国王・英祖として即位。母の功績を称えて丁重に顕彰したと記録されています。

ドラマ「トンイ」でも英祖が母のお墓参りをする場面がありました。史実でも英祖の母に関するエピソードがいくつかあり、歴代の王の中でも特に母への思い入れが強い人物です。母子の絆がどれほど深かったのかが伝わってきます。

 

墓所「昭寧園」

淑嬪崔氏粛宗の当時の側室の中でも高い地位にありました。粛宗は淑嬪崔氏の葬儀を規則通りに行うよう命じました。彼女の棺は丁重に運ばれ、最高の供物が捧げられました。

淑嬪崔氏は側室ですので、王や王妃と一緒には葬られていません。格式も王妃のものよりは低いです。でも肅宗は淑嬪崔氏のための墓を造らせたので、一定の敬意はもっていたようですね。

淑嬪崔氏のお墓は英祖の手によって整備され、最終的に昭寧園(ソリョンウォン)と呼ばれました。現在の京畿道坡州市にあり。その場所は大切に保存されており歴史的な場所として多くの人に知られています。

淑嬪崔氏の墓

淑嬪崔氏の墓

 

トンイの子供たちと朝鮮王朝への影響とは?

成人したのは後の国王「英祖」だけ

史実の淑嬪崔氏には3人の息子がいました。でも成人したのは後に朝鮮王朝の第21代国王となるヨニングン(英祖)だけでした。他の2人の王子は幼くして亡くなっています。

これは当時の乳幼児死亡率が高かったことを示していますね。

ドラマ「イ・サン」との深い繋がり

韓国ドラマファンなら知っている人も多いと思いますが、ドラマ「イ・サン」の主人公 正祖トンイの息子 英祖の孫です。つまりトンイ正祖の曾祖母になるのですね。

このようにトンイの血筋は朝鮮王朝の重要な人物へと繋がっていました。彼女の存在が後の歴史に大きな影響を与えたことがよくわかります。

 


ドラマ「トンイ」と史実の比較表

ドラマ「トンイ」のトンイと史実の淑嬪崔氏の最期の比較をしてみましょう。

項目 ドラマ「トンイ 史実(淑嬪崔氏
最期 民に見守られ安らかに息を引き取る 宮廷外の私邸で病死 享年48歳(満年齢)
晩年 宮殿を離れ民と共に暮らす 宮廷を離れて息子と同居。病がち。民との交流記録は不明。
死因 明確は最期は描かれない。 病死。具体的な病名は不明。
場所 ラストシーンは草原で粛宗と再会。象徴的な描写 宮廷外の私邸(昌義洞)

 

史実の淑嬪崔氏は味方によっては肅宗から冷遇されていたとも受け取れる扱いですが。ドラマでは宮殿を出たのを逆手に取って「民と共に生きた」という演出にしました。

最期もドラマではあえて臨終の場面を描かず、ぼやかすことで明るいトンイのドラマにふさわしい感動的なラストシーンを演出したのでしょう。

 

まとめ

ドラマ「トンイ」では主人公トンイの印象的なシーンで終わりました。

しかし史実でのる淑嬪崔氏の死因は病死だったとされています。48歳(満年齢)で夫の粛宗に先立って宮廷外の私邸で亡くなっていたのですね。

ドラマと史実には確かに違いがありました。

それでも、トンイや淑嬪崔氏が波乱の人生を生き抜き、英祖朝鮮王朝の偉大な国王に育て上げた点は共通しています。トンイの人生と最期を知ることでドラマの感動だけでなく歴史の奥深さも感じていただけたのではないでしょうか。

トンイの死因Q&A

Q
トンイの死因は何ですか?
A

トンイの死因は病死です。1718年に昌義洞の私邸で亡くなりました。病名は不明ですが、薬が送られた記録から持病があったと考えられます。

Q
ドラマ『トンイ』の最終回で死んだのですか?
A

ドラマではトンイの死は描かれていません。でも息子の英祖が墓参りをする場面があります。最終回の終わりの時点ではトンイはすでに亡くなっていたことがわかります。

Q
淑嬪崔氏の墓はどこにありますか?
A

墓所は京畿道高陽市の「昭寧園(ソリョンウォン)」にあります。英祖によって丁重に整備され、現在も史跡として保存されています。

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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