王式廉(ワン・シンニョム)は高麗の王族で重臣。
太祖・王建の伯父にあたり、王族としても強い影響力を持っていました。王建の死後、後継者争いが起こり、王式廉は王堯(ワン・ヨ、後の定宗)を王にすることに成功。
定宗を操り、政治の実権を握りました。
史実の王式廉(ワン・シンニョム)はどんな人物だったのか紹介します。
王式廉(ワン・シンニョム)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:949年
名前:王式廉(ワン・シンニョム)
称号:戴宗(追尊)
父:王平達
母:不明
高麗王朝、初代国王・太祖(王健)~4代光宗の時代に生きました。
日本では平安時代の人になります。
祖父・王帝建(作帝建ともいいます)は中国系民族で新羅の貴族になりました。
父は王平達。太祖王建の父・王隆の弟です。
父・王平達とともに王建の高麗建国に参加。
918年。高麗が建国。王式廉は父とともに開国功臣となりました。
軍部書史などの要職を歴任。
王建は西京(平壌)を重視しようと考えていましたが、西京は荒廃していたため王式廉を西京の鎮将に任命しました。王式廉は西京の開発をすすめ街を発展させました。
王建を支える重臣として昇進を重ね左丞になりました。
王建の死後、長男の恵宗があとを継ぎました。
しまし恵宗が病に倒れます。王建の息子たちの間で相続争いが起こりました。
そのとき王式廉は第三王子の王堯(ワン・ヨ、後の定宗)を支持しました。
政敵・王規(ワン・ギュ)を倒して権力を得る
王堯は王規(ワン・ギュ)は自分の孫を王にしようとしていると主張。王式廉は平壌から兵を連れて首都の開京(開城)にやってきました。王式廉は大きな武力を持っていたので、自力では王になるのは難しいと考えた王堯が呼び寄せたといわれます。王堯と王式廉は王規を処刑しました。
しかし王規の娘は王建の側室となり孫はいましたが。優先順位が低いため他の豪族の支持も得られず王位継承を狙える立場ではありません。王規は恵宗の信頼を得ることで政治的発言力を維持していた人物です。そこで恵宗支持派だった王規をおい落とすため、王堯と王式廉が言いがかりをつけて殺したともいわれます。
定宗の側近となって高麗を動かす
945年。王堯が即位。第3代国王・定宗となりました。王式廉(ワン・シンニョム)は匡國翊贊功臣となり大丞の地位を得ました。
定宗は王になったものの、実際には王式廉が権力を持っていました。
この時代、王権は弱く豪族たちの思惑を強く受けていました。王式廉は、開京を本拠地にしている豪族の影響力を抑えようとします。そのため自分が本拠地にしている平壌に遷都することにしました。
当然、開京の貴族の反発が大きく彼らの支持を得た王昭(ワン・ソ、後の光宗)との対立につながります。
遷都にむけた工事のため平壌に開京の民を連れてきて労働させました。重い労働に民衆の不満が高まりました。
949年1月。死去しました。
定宗は王式廉に「三重大匡」の称号を与えました。
しかし3月には定宗も死去します。
その後、王昭が王になります。
王式廉と定宗の死によって平壌遷都計画は中止になりました。
テレビドラマ
輝くか狂うか MBC 2015年 演:イ・ドクファ
麗・花萌ゆる8人の皇子たち 2016年 SBS 演:パク・ジョンハク
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