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フラタイ(印侯)モンゴルからやってきて高麗に帰化した元安公主の従者

2.2 高麗の重臣や人々

フラタイはモンゴル・高麗の軍人兼政治家。

高麗時代の後半にモンゴル帝国からやって来て高麗に帰化しました。

モンゴル帝国から高麗王家に嫁いだクトゥルク・ケルミシュ(元安公主)に付き従ってやって来たのです。高麗でも重臣として大きな力を持ちました。

その子孫は延安印氏となって高麗に根付きました。

史実のフラタイはどんな人物だったのか紹介します。

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フラタイの史実

いつの時代の人?

生年月日:1250年
没年月日:1311年

名前:
モンゴル名:フラタイ
高麗名:印 侯(いん こう)
氏族:延安印氏
父:不明
母:不明
妻:不明

子供:仁承光、仁承壇、娘

高麗王朝では 25代忠烈王・25代忠宣王の時代に活躍しました。
日本では鎌倉時代の人になります。

1274年。大都で人質生活をしていた高麗の世子・王芯(忠烈王)は、フビライの娘クトゥルク・ケルミシュと結婚しました。

元宗が死亡したので王芯は高麗に戻り即位しました。忠烈王の誕生です。クトゥルク・ケルミシュ(元安公主)も高麗にやって来て高麗王妃になりました。

このときにクトゥルク・ケルミシュ(元安公主)はモンゴルにいたときに従えていた者たちを高麗に連れてきました。フラタイもその一人です。

高麗に来て印 侯と名乗る

高麗に来たフラタイは中郎将に任命されました。

忠烈王は将軍に任命するときにフラタイに高麗名を名乗るように命じました。そこでフラタイは親しかった高麗の大将軍・秀から姓をもらって「印 侯」と名乗りました。

同じようにモンゴルからやって来た張舜龍(チャン・スンリョン)、車臣(チャシン)とともに邸宅を建てて暮らしました。その暮らしぶりは贅沢だったといいます。

1277年。趙仁規(チョ・インギュ)と共に元に行って鷹を献上しました。忠烈王が鷹坊をなくそうとしたとき激しく反対しました。そのためフラタイは鷹坊を基盤に勢力拡大をしていたと考えられます。

1278年。趙仁規とともに慶尚道に行き、モンゴル軍人が本国に帰還するときは、親が承諾した妻しか同行できないと命令しました。あとで趙仁規とともに慶尚道に行き、モンゴル軍人の遺民を探し出して戸籍に載せました。

1279年。趙仁規とともに元に行き、戦艦を修理したことを報告しました。このときの高麗軍は1274年の文永の役(1回めの元寇)で大損害を出したので船を修理したり新しい船を建造している最中だったのです。

1280年(忠烈王6年)。大将軍として元に使者として行きました。

元が金州(現在の慶尚南道金海)などに鎮辺万都戸府を設置したとき、昭勇大将軍鎮辺万都戸に任命されました。合浦にいて、全羅・慶尚道を支配。高麗の民を苦しめたと言います。合浦は元寇のときに元・高麗・女直連合軍の集合地点になる海軍の拠点でした。

1286年。副知密直になりました。その後、議賛事などを歴任しましたが。

1299年。宰相の韓希愈が不正を働いたとして逮捕しました。しかしその後、韓希愈の無実が明らかになり逆にフラタイが元に戻されます。

1306年に韓希愈が死亡した後。高麗に再び来ました。

忠宣王の時代

1308年。忠宣王が再び即位すると直になりました。忠宣王のもとでは重臣として大きな力を持ちます。

フラタイは強欲で他人の土地や奴婢を奪ったり、多くの賄賂をとり財を蓄えました。

1311年。死去。フラタイの死を高麗の人々は喜んだと言います。

フラタイには息子の印承光(イン・スングァン)、庶子の印承壇(イン・スンダン)がいました。仁承光は護軍の官位を得て高麗に仕えました。

フラタイの娘は権門貴族の元州元氏に嫁ぎました。

子孫が延安印氏になる

フラタイは延安印氏の祖先になり。高麗・朝鮮と彼の子孫は続くことになります。

とはいっても高麗では帰化人は珍しいことではなく。高麗時代には約23万人が帰化したと言われます。韓国大学の韓洪九教授によると朝鮮人の40~50%が帰化人だといわれます。高麗(そのあとの朝鮮・韓国も同様)は日本以上に多様な民族の集合体なのです。

帰化人全体では一番多いのは中国系です。他にも契丹・女真・モンゴル・南方系に由来する氏族もあります。モンゴル帝国に支配されていた高麗後期はモンゴルからの帰化人も多くいた時代です。

延安印氏は代表的なモンゴル系帰化人なのです。その祖先がフラタイです。

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