蓋鹵王は百済の第21代国王。
倭国(日本)や新羅と同盟して高句麗に対抗しようとしました。しかし高句麗の長寿王に攻められて都が陥落。
蓋鹵王は処刑されてしまいます。蓋鹵王の時代に百済はいったんは滅亡しました。後に息子の文周が百済を再建します。
史実の蓋鹵王はどんな人物だったのか紹介します。
蓋鹵王(ケロワン)の史実
プロフィール
別名:扶餘 慶(ふよけい)、余慶(よけい、宋書)、加須利君(かすりのきみ、日本書紀)
称号:蓋鹵王(ケロワン、がいろおう)
生年月日:不明
没年月日:475年
在位:455~475年
百済の第21代国王。
日本では古墳時代になります。
家族
子:文周王
蓋鹵王の家系図
おいたち
父は百済20代国王・毗有王。生年は不明です。
455年に毗有王が死亡したので即位しました。
457年。宋から「鎮東大将軍」の爵位を与えられました。
458年。家臣に与えていた将軍の称号を宋の世祖に認めてもらいました。このとき爵位を貰ったものの多くが餘姓(余姓)でした。扶餘(余)は百済の王族の姓ですから、爵位を貰った人に王族が多かったのです。蓋鹵王が王族中心の支配体制を作ろうとしていたことがわかります。
爵位を貰った人物の中に「余昆」がいます。これは弟の「昆支」だと言われています。
461年。王子の昆支を倭国(日本)に人質として送りました。
当時の百済は高句麗に対抗するため倭国と同盟を結んでいました。倭国から援助を受けるかわりに百済からは様々な品物や文化、人質を送っていました。日本書紀によるとそのとき昆支が連れて行った婦人が産んだのが後の武寧王といわれています。
469年。高句麗に対抗するため、雙峴城、北漢山城を修理するなど守りを強化しました。
471年。宋に朝貢しました。
472年。百済は中国の南朝に朝貢していました。しかし高句麗に対抗するために北魏にも使者を送りました。北魏は高句麗に近く、高句麗が使節を送っている国だったからです。
長年高句麗に攻められていた百済は北魏に高句麗の非道さを訴え、高句麗を討って欲しいと頼みました。北魏は高句麗と百済を監視するため使節を送りました。ところが高句麗の長寿王に阻まれて百済に行くことができませんでした。使節は目的を果たすことができませんでした。
高句麗をなんとかしてほしいという蓋鹵王の願いは叶いませんでした。
高句麗のスパイに騙される
高句麗から「桃林」という僧侶が百済にやって来ました。囲碁が好きだった蓋鹵王は囲碁を通して桃林と親しくなり、信頼するようになりました。桃林は蓋鹵王に百済は海に囲まれているが大きな城がなく外敵の侵入をうける恐れがある。大きな城を造るといいでしょう。そうすれば誰も百済を見下すことはないでしょう。とアドバイスしました。
その教えを聞いた蓋鹵王は喜んで国内にいくつも城を造りました。ところが大規模な土木工事を繰り返したので民は疲弊し、国の資金も底をついていしまいました。それを見届けた桃林は高句麗に帰り長寿王に報告しました。桃林は高句麗のスパイだったのです。
高句麗に滅ぼされる
475年。長寿王は百済を攻撃。首都の慰礼城まで高句麗軍が迫ってきました。蓋鹵王は王子の文周を南に逃しました。蓋鹵王も自ら騎兵を率いて都を出ました。しかし高句麗軍に捕まり処刑されました。
このとき王妃や他の王子も死亡。都が陥落し王族も死亡するという大惨事で百済は国としては事実上滅亡しました。
後に文周が新羅の援軍を率いて戻ってきた時。都は高句麗によって滅ぼされていました。
これにより一旦は百済は滅亡。文周が熊津を新しい都にして再興します。
まとめ
百済は蓋鹵王のときに高句麗の長寿王による攻撃を受け、都が陥落。蓋鹵王は死亡し、百済は滅亡の危機に瀕しました。
蓋鹵王の悲劇的な最期は百済の歴史において特に苦しい時代の幕開けを告げるものとなりました。
高句麗の脅威にさらされながらも、王族中心の支配体制を築こうとした蓋鹵王の執念が国を滅亡へと導いたのか、それとも高句麗の圧倒的な力の前には為す術がなかったのか。
蓋鹵王の死後、百済は熊津を新たな都として再興しますが、その後も高句麗や新羅との戦いに明け暮れ苦しい時代が続きました。
蓋鹵王の生涯は百済の歴史を理解する上でも欠かせない重要なものと言えるでしょう。
テレビドラマ
帝王の娘スベクヒャン MBC 2013年 演:イ・ギヨン
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