宣懿王后魚氏(ソニ王妃オ氏)は李氏朝鮮王朝20代景宗の妃です。
14歳のとき当時世子だった景宗の2人目の妃になりました。
景宗が短命だったため20歳で大妃になってしまい若くしてこの世を去りました。
史実の宣懿王后はどんな人物だったのか紹介します。
宣懿王后の史実
いつの時代の人?
生年月日:1705年
没年月日:1730年
名前:魚氏(オ氏)
称号:宣懿王后(ソニワンフ)
父:魚有亀
母:全義李氏
夫:景宗
子供:なし
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)20代景宗の正室です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1705年に生まれました。父は 老論派の役人・魚有亀。老論派重臣の金昌集の弟子でした。
1718年3月。前の世子嬪沈氏(端懿王后)が32歳で病死。急遽新しい世子嬪を選ぶことになりました。
1718年。14歳のときに世子嬪に選ばれました。その年に結婚しました。このとき世子(景宗)は30歳。
王妃になる
1720年。粛宗が死亡して景宗が即位しました。彼女も王妃になります。
しかし、前の世子嬪沈氏に端懿王后の諡号を与え、世子嬪魚氏に王妃に任命を同時に行ったので清からクレームがつきました。清から正式に王妃の承認を得たのは1721年でした。
1721年。景宗に跡継ぎがいないという理由で老論が延礽君を世弟にするよう要求しました。
このとき宣懿王后はまだ17歳でした。
老論の主張と仁元大妃の強力な支持もあって延礽君が世弟になりました。
延礽君の存在に危機感をもつ宣懿王后
1722年。延礽君が世弟になったことに危機感を持った少論派は宣懿王后と協力。老論派と延礽君を排除しようとしました。老論が景宗を暗殺しようとしたという噂を流し老論派は60余命が死罪になりました。
でも仁元王大妃がかばったこと、景宗が延礽君の取り調べを許可しなかったこともあり延礽君を排除することはできませんでした。
景宗の病がひどくなると、少論と協力して密豊君か密豊君の子を養子にしようとしました。延礽君が王になり自分の立場が危うくなるのを恐れたためです。しかし景宗の死で実現しませんでした。
20歳で大妃になる
1724年。景宗が死去。英祖が即位しました。わずか20歳で大妃になりました。
宣懿大妃と英祖は仲が悪かったといいます。
英祖が即位するの手続きを宣懿大妃は拒否しました(新王の即位は形の上では大妃の承認が必要)。
また英祖も宣懿大妃に贈られる品を削って役人や民に配りました。
宣懿大妃は昌慶宮で暮らしました。昌慶宮は景宗が世子時代に暮らした場所です。
1728年。李麟佐の反乱が起こりました。このとき李麟佐は「宣懿大妃から密命を受けた」と主張しました。密書を見た者はいませんが、李麟佐はそのように主張して反乱を正当化していました。
1730年。病で死去。病名は明らかになっていません。
宣懿大妃の暮らした昌慶宮は世子宮に改装され、思悼世子が暮らしました。
恵慶宮洪氏は思悼世子の頭がおかしくなったのは昌慶宮で炊いた食事を食べたからだと信じていたようです。
テレビドラマ
2016年 SBS テバク 演:ホン・イェジン
2019年 SBS ヘチ 演:ソン・ジイン
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