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伏壽 :曹操のせいで廃位された漢の皇后

漢 7 漢

 

伏壽(ふく じゅ)は後漢の最後の皇帝・献帝の皇后です。

曹操暗殺計画がばれて廃后になり死亡しました。

史実の伏壽はどんな人物だったのか紹介します。

 

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伏壽の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:214年

名称:伏壽(ふく じゅ)
地位:皇后(廃后)
父:伏完
嫡母:劉華(陽安公主)
生母:盈
夫: 献帝

子供:男子2人

後漢最後の皇帝・ 献帝の皇后です。

伏壽が生きたのは2世紀後半から3世紀の初め。
日本では弥生時代になります。

おいたち

生年はわかりません。

父は名門の伏完(ふく かん)。
母は盈(えい)という人物。姓はわかりません。
伏 完の正妻は劉華(陽安公主)でした。伏壽にとっては劉華が嫡母(側室の子からみた正妻)になります。

190年。後漢の皇帝・献帝(劉協)が董卓(とう たく)につれられて長安に移りました。
しかし董卓が呂布に暗殺され、と李傕(り かく)や郭汜(かく し)が実権を握りました。
献帝は伏壽を側室に指名しました。伏壽は貴人の地位を与えられました。

献帝と伏壽の仲は良かったといいます。

 

漢の皇后になる

 

195年。皇后になりました。

195年後半。献帝は洛陽に戻ることになりました。伏壽も一緒でした。献帝を奪い返そうとする李傕・郭汜と董承・楊奉の戦いが起きます。またこのとき伏壽は絹を持っていきました。ところが護衛役の董承(とう しょう)が剣で脅してこの絹を奪ってしまいます。なんとか安邑までたどり着きましたが、服は擦り切れたり破れていました。粟やナツメを食べて飢えを凌がなければいけませんでした。

196年7月。献帝と伏壽はなんとか洛陽に到着しました。宮殿に入り漢王室を再興したかに思えましたが街は荒れ果てていました。人々は飢餓に苦しんでいました。

曹操は献帝を自分の本拠地の許(湖南省許昌)に移しました。

宮廷では曹操の力が大きくなり、曹操は献帝の名を借りて諸侯に命令しました。献帝も曹操に逆らえません。

200年。献帝は董承に曹操を排除するように命じました。董承が曹操暗殺計画をたてましたが、曹操にばれてしまいます。董承とその部下は殺害され、献帝の子を身篭っていた董承の娘まで処刑されてしまいます。

その仕打ちに驚いた伏壽は恐ろしくなって、父・伏完に手紙を送り曹操は残酷なのでなんとか排除してほしいと頼みました。しかし伏完は曹操が怖くて行動を起こせません。

209年。伏完は何もできないままこの世を去ります。兄・伏典が父のあとを継ぎました。

214年。過去に伏壽が「曹操暗殺の陰謀」を計画したことが知られてしまいます。曹操は激怒して献帝に対して伏壽を廃后にするよう要求しました。

曹操は部下の郗慮(ち りょ)に皇后の印綬(金印)を奪うように命じました。また華歆(か きん)を送って伏壽を捕らえようとしました。

伏壽は部屋に隠れていましたたが、華歆に見つかって引きずり出されてしまいます。

伏壽は外殿で郗慮と会っていた献帝の前に連れて行かれました。伏壽は
「陛下、また一緒にすごすことができるでしょうか」と涙ながらに訴えました。

献帝は「朕もいつまで生きていられるかわからぬ」と答えました。

伏壽は暴室(女官を入れる牢屋)に幽閉されそこで死亡しました。
ある説ではその場で殺害されたともいいます。

伏壽には2人の息子がいましたが、殺されました。

 

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