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張卬・盗賊から将軍に出世?反乱軍あがりの荒くれ者

漢 7 漢

張卬(ちょう ごう)は新・更始帝軍の武将です。

新朝末期におきた緑林軍の反乱では、緑林軍のいち員として頭角を表しました。

やがて劉縯が率いる舂陵軍と合流。

勢力を拡大した反乱軍は劉玄を担いで天子にします。

やがて、更始帝になった劉玄と張卬は対立。

更始帝に破れた張卬は赤眉軍に降伏して長安を攻めて更始帝を捕らえます。

赤眉軍は更始帝の命まで奪うつもりはなかったようですが。張卬がそそのかして更始帝を殺害させました。

史実の張卬(ちょう ごう)はどんな人物だったのか紹介します。

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張卬(ちょう ごう)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :張(ちょう)
名称:卬(ごう)

国:新・漢(更始帝)
称号:淮陽王

父:不明
母:不明
妻:不明

子供:不明

彼は新から後漢時代の武将です。

日本では弥生時代になります。

緑林軍 に参加

生年は不明。

両親も不明。

新朝時代。民衆は王莽の悪政に苦しんでいました。
新朝末期。飢饉が襲い、人々はさらに苦しくなり。各地で反乱が起こりました。

王匡と王豊は緑林山脈(現在の湖北省丹陽の北東)で流人を集め反乱を起こしました。この反乱軍を「緑林軍」と言いました。

張卬(ちょう ごう)は「緑林軍」に参加。

それまでの張卬が何をしていたのかは分かっていません。

やがて張卬は緑林軍でも有力な将軍(武装集団の隊長格)になっていきます。

緑林軍は各地を襲いどんどん勢力を広げました。その規模は数万人になりました。

緑林軍が分裂

地皇3年(22年)。軍団内で疫病が流行して半分にまで減ってしまいます。緑林軍は分裂してしまいました。

王常・成丹は藍口聚(南郡編県)へ行って「下江軍」
王匡・王鳳・馬武・朱鮪は南陽郡に行って「新市軍」と名乗りました。

このとき張卬は、

「後漢書・王常伝」では下江軍に所属した。
「後漢書・劉玄伝」では新市軍に所属した。と書かれています。

この記事では内容の詳しい「後漢書・王常伝」をもとに紹介します。

下江軍では「王常」が頭領になりました。

地皇3年(22年)。下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)にいたいたとき。

舂陵軍の劉縯(劉秀の兄)がやってきて合流しようともちかけてきました。張卬と成丹は、劉縯の家柄は上なので自分たちが配下のようになってしまうと考え、合流には乗り気ではありません。

でも王常は劉縯との合流を希望しました。

張卬や他の将兵たちは王常に説得されて合流を認めました。

地皇4年(23年)1月。舂陵軍・下江軍の連合軍は沘水で新の南陽太守・甄と梁丘賜の軍を破りました。

その後、舂陵・下江連合にかつての緑林軍の仲間・新市軍が合流しました。

新しい天子に劉玄を支持

そこで反乱を正当化するため。天子(皇帝)を決めようということになりました。

このとき、舂陵軍出身の劉縯と平林軍出身の劉玄が候補になりました。

諸将の間で議論になりましたが、緑林軍出身者はもちろん劉玄を支持します。もちろん張卬も、劉玄を支持しました。

結局、軍団の分裂を避けるため劉縯が譲って。劉玄が天子になりました。

そして議論の最後で、張卬は剣を抜いて地を斬りつけ

「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言いました。他の武将たちも張卬の意見に賛成しました。

更始1年(23年)2月。劉玄は更始帝として即位しました。国号は「漢」、元号は「更始」になりました。

張卬は衛尉大将軍に任命されました。

武装グループの隊長が本物の将軍になりました。

その年の間に更始軍が新の都・長安を攻め落とし王莽を倒し、新が滅亡。

更始2年(24年)2月。高指定は長安に遷都しました。

張卬は「淮陽王」になりました。

ところがこの頃から、張卬は横暴になります。

更始2年(24年)12月。赤眉軍は西に動き出していました。赤眉軍は山東で挙兵した農民の反乱軍です。赤眉軍は一度は更始帝に従いましたが、領地などの問題で更始帝と対立していました。

更始3年(25年)1月。更始帝は劉秀を河北に派遣しました。やがて劉秀の軍は拡大。危機感を感じた更始帝は劉秀から軍の指揮権を奪おうと考え、劉秀に都に戻ってくるよう命令しましたが劉秀は拒否しました。

更始帝と劉秀は対立することになりました。

翌更始3年(25年)。張卬は王匡、成丹たちと共に10数万の軍勢を率いて河東郡を守備。劉秀側の部将・鄧禹を迎え撃ちました。

ところが戦いは敗北。張卬たちは河東を放棄して長安へ逃げ帰りました。

更始帝と対立

さらに赤眉軍も長安目指して進軍しています。

状況がよくないと考えた張卬は、元緑林軍の諸将を集めて「赤眉はまもなく長安に来るだろう。このまま長安を守っても包囲されて死ぬだけだ。ここは長安の食料や財宝を略奪して食料を確保した後、赤眉を攻めて南陽へ戻る道を切り開こう。そして南陽で兵を集めて再起すべきだ。もし敗北しても再び緑林で山賊の生活に戻ればいい」と主張しました。

張卬の提案に他の諸将は賛成しました。

この話の内容から想像すると、張卬はもともと盗賊か似たようなことをしていた人物で、略奪は当たり前のように行う人物だったようです。というよりこの時代は略奪が横行していたのでこのような人物は珍しくなかったのでしょう。

そこで張卬は王匡、廖湛、胡殷、申屠建と共に、更始帝に南陽に逃れるように進言しました。

更始帝は張卬の案を拒否しました。

拒否されたのが不満な張卬は、廖湛、胡殷、申屠建、隗囂と共にクーデターを計画しました。

更始帝は張卬の計画を知って5人を呼び出して処刑しようとしました。

申屠建は更始帝に処刑されましたが。

ところが張卬たち4人は逃げました。

張卬たちはまず皇城を脱出すると東と西の市場を略奪、暗くなると宮殿の門に放火して宮殿に押し入り、更始帝を守る兵たちと戦いました。

張卬たちの軍が勝ち、更始帝は新豊(京兆尹)に逃げました。

その後、新豊から王匡が逃げてきて合流。

ところが新豊で軍を立て直した更始帝、趙萌、李松に反撃されて、張卬たちは敗北。長安から逃げ出しました。

行くあてのない張卬たちは赤眉軍に降伏しました。

更始帝を殺害

張卬は赤眉軍を長安まで先導しました。

更始3年(25年)9月。長安は赤眉軍の攻撃で陥落。

更始帝は捕まりました。赤眉軍は更始帝の命を助けました。

でも張卬は劉玄に生きていてほしくありません。復習されるかもしれないからです。そこで赤眉軍の将謝禄をそそのかして更始帝を殺害させました。

更始帝を殺害した後。

歴史書には張卬の記録はありません。

張卬がその後、どのような人生を歩んでどのような最期だったのかも知られていません。

 

テレビドラマの張卬

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:張境佳

 

出典:amazon

 

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