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劉秀 が 漢の再興を目指して光武帝に即位するまで

漢 7 漢

劉秀(りゅう・しゅう)/光武帝は後漢の初代皇帝。

漢は王莽にクーデターを起こされて一度は滅びました。

王族の血筋をひく劉秀が漢(後漢)を再興しました。

劉秀の一族は前漢の王族の子孫で南陽(現在の河南省付近)に移住。豪族になっていました。

新朝末期の混乱の時代に南陽の劉一族が「漢の再興」を目指して挙兵。その中から生き残り皇帝に即位したのが劉秀です。

この記事では劉秀の生い立ちと挙兵してから皇帝に即位するまでを紹介します。

 

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劉秀/光武帝の史実

いつの時代の人?

生年月日:前5年1月15日
没年月日:57年3月29日

姓 :劉(りゅう)氏
名称:秀(しゅう)
字:文叔

国:漢
地位:
称号:光武帝

父:劉欽
母: 樊嫻都
正妻:
郭聖通(郭皇后)
陰麗華(光烈皇后)

子供:
明帝 劉荘
他、

日本では弥生時代になります。

おいたち

前漢の景帝(前188~前141年)の子孫。漢の宗室(王の一族)。
景帝の子・長沙王・劉発の玄孫(やしゃご、孫の孫)

長沙王の子孫は一族をあげて南陽(現在の河南省付近)に移住。豪族になっていました。劉秀の家は南陽で勢力をもっている劉一族のひとつです。

劉秀が生まれたのは、前漢末期の前5年1月15日。出身は陳留郡(河南省開封市)

父は 南頓縣令の劉欽。

母の樊嫻都は地方豪族の娘。樊(はん)家も裕福な家でした。

劉秀が9歳のとき父・劉欽が死亡。

その後は叔父の劉良に育てられました。

西暦5年。漢王室の外戚だった王莽がクーデターを起こして「新」を建国。王莽は儒教を元にした様々な改革を行いました。王莽は土地の私有化や奴婢の売買を禁止しました。土地や奴婢は豪族たちにとっては自分たちの財産です。各地の豪族は反乱を起こしていました。

劉秀は働き者で農業をする一方、天鳳年間(14~19年)には長安の学校に入学、儒教を勉強しました。

皇帝の子孫なのに農業しているのは不思議に思うかもしれません。王族とはいっても王位継承権はなく、地方に移り住んだ一族。しかも劉秀の家は南陽の劉一族の中でも分家です(後に共闘する劉玄が南陽劉氏の本家筋)。似たような血筋の人なら全国にたくさんいたでしょう。

劉秀は「職につくなら執金吾、妻にするなら陰麗華」と語っていました。

陰麗華は南陽郡新野の豪族・陰家の娘。地元では絶世の美人と評判でした。陰家は新野でも大富豪として有名でした。

でも評判を聞いて言っていただけで、実際に親しかったわけではないようです。

「執金吾」とは首都の治安維持担当の役人。格好いい服を来て部下を引き連れて市中を巡回する立派な姿は若者の憧れでした。

金持ちで美人の令嬢や都会の格好良い仕事に憧れる。劉秀は地方によくいそうな青年でした。

劉秀の兄・劉縯は任侠気質で手下を集めて徒党をくんでいました。

はやい話が私設の武装集団です。

兄・劉縯とともに挙兵

新朝の末期には災害や飢饉がおこりました。そのため各地で反乱が起きていました。

豪族に雇われている食客たちも強盗を働いていました。

食客というと自分の才能を頼りに世間を渡り歩く格好いいイメージがついてますが。

実際には浪人者です。この時代。生活に困って盗賊になる人も多く、盗賊から家や財産を守るために豪族も私兵を雇って武装していました。豪族が雇う私兵(傭兵)も浪人者や生活に困った人たちです。こうした私兵を歴史書では食客と書いてあることがよくあります。

あるとき食料に困った劉秀の食客が他人を殺害してしまいます。劉秀は役人の追求を逃れるため新野に移住しました。

このころ。南陽の劉一族の中からも「漢王室の復興を」という声が大きくなっていました。

劉家の食客たちもさかんに挙兵を勧めます。

慎重な劉秀はすぐには挙兵しませんでした。

でも劉秀は「兄・劉縯は間違いなく挙兵するだろうし王莽も先は長くないだろう」と考え直して武器を買い集めました。

22年冬。劉秀は挙兵しました。

兄の劉縯(りゅう・えん)は先に挙兵していました。でもあまり兵が集まっていません。

劉秀が挙兵したと知れ渡ると「慎重なあの方でさえ挙兵するのか」と皆驚いて挙兵に参加しました。

劉縯が舂陵(しょうりょう)という場所で挙兵したので劉縯・劉秀の軍は「舂陵軍」と呼ばれます。

劉秀は最初は牛に乗っていました。後に敵の馬を捕獲して使いました。武器の購入に費用をかけすぎたのかもしれませんし、もともと農耕用に飼っていた牛を使ったのかもしれません。

劉家の食客の中には略奪を行うものもいて劉家に批判が集まりました。そこで劉秀は戦利品を公平に分配することにしました。

舂陵軍はやがて新市軍や平林軍と合流しました。平林軍には一族の本家筋の劉玄がいました。

劉秀たちの軍は各地で新軍と戦い城を陥落させていきました。

23年。劉縯・劉秀たちは淯陽で新軍を破り、連合軍が南陽宛城を包囲しました。

更始元年(23年)2月。宛城を包囲中の連合軍は劉玄を皇帝(更始帝)にたてました。国号を「漢」、元号を「更始」にしました。劉縯は大司徒、劉秀は太常偏将軍になりました。

3月。劉秀は宛城を包囲している劉縯と別行動して各地を説得してまわり味方を増やしました。

100万?の大軍相手に勝利した昆陽の戦い

劉玄が皇帝に即位したと知った王莽は100万の軍を派兵しました。100万はハッタリで実際の兵士は40万程度といわれます。それでも大軍です。

新軍を率いるのは王邑と王尋です。ところがこの二人、戦いにはあまり詳しくありません。

劉秀には数千の兵しかいなかったので昆陽城に逃げ込みました。将兵たちは敵軍の多さに恐れて逃げようとしました。

劉秀は皆を説得。自分の策を聞かせて納得させました。

そして劉秀は13騎の兵を城の南門から出して郾や定陵で兵を集めました。

劉秀がいない間に昆陽城は新軍に包囲されてしまい、戦いが始まりました。

5月。宛城を包囲していた劉縯が宛城を陥落させました。

6月。劉秀は各地で集めた数千の兵を連れて昆陽に戻ってきました。

王邑・王尋は劉秀軍の数が少ないのをあなどって1万余の兵で城を囲む新軍に突撃しました。

劉秀軍は王邑・王尋軍を撃破しました。さらに劉秀は「宛からの援軍が到着した」という情報を昆陽城の味方に知らせ士気を高めました。王邑たちの新軍も動揺します。(このとき劉秀は劉縯が宛城を陥落させたことは知らなかったので偽の情報になります)

劉秀は3千の兵を率いて敵陣の中心部めがけて突撃しました。

新軍は数が多すぎて身動きできず王尋は戦死します。

昆陽城内の漢軍も城を出て新軍に襲いかかり、新軍は大混乱。

さらに天候が荒れて河が氾濫。数万が溺死しました。王邑はかろうじて逃げ延びました。

劉秀は大勝利でした。

この戦いの後、劉秀は以前より結婚したいと思っていた陰麗華と結婚します。

兄が殺害され更始帝に服従

昆陽の戦いと宛城を陥落させた劉兄弟の評判は急上昇。

これに危機感をもったのが更始帝です。更始帝は劉縯に言いがかりをつけて処刑しました。

その知らせを聞いた劉秀は急いで宛城にいる更始帝のもとに行き、兄が働いたという罪を謝罪しました。劉縯の部下が劉秀を出迎えましたが、彼らとは私的な会話をせず兄の喪にも服しませんでした。

内心では更始帝が憎かったでしょうが、ここで劉縯の喪に服したり更始帝の決定に反対したりすれば反逆者扱いです。劉秀は耐えました。

更始帝は劉秀の態度を見て警戒を和らげたのか、劉秀を破虜大将軍に任命、領地を与え武信候にしました。

昆陽宛城での戦いの結果を知った各地の豪族たちが更始帝に味方しました。大軍になった更始帝軍は洛陽と長安を陥落させました。

更始帝は洛陽を都にしようと思いました。そこで劉秀を洛陽に派遣、宮中と施設を修復させました。劉秀は配下の者を集め、制度や服装を漢のものにします。劉秀たちの姿を見た洛陽の人々は「漢が復活した」と感動しました。

更始帝も洛陽に移動しましたが衣服がみすぼらしかったので人々は落胆しました。

このころまで劉秀は劉縯の弟ということで更始帝や配下の者たちの監視下におかれ自由な行動はとれませんでした。そのため更始帝に逆らうような行動はとれませんでした。

河北に移動して独自に勢力拡大

更始元年(23年)冬。劉秀は更始帝から河北の平定を命令されました。

他に適切な人材がいなかったので更始帝は劉秀の派遣を決めたのです。

10月。劉秀は皇帝の命令を受けた印の「節」をもって旅立ちました。錦の御旗みたいなものです。大軍を与えられたわけでなく僅かな兵と「皇帝の権威」が頼りでした。

劉秀は黄河を越えて北に向かい河北の州郡を配下に治めていきました。劉秀は各地で漢の制度を復活させました。

劉秀は邯鄲に来ました。すると劉林が反乱軍の赤眉軍を討つため、黄河の堤防を壊して反乱させようと進言しました。劉秀はその作戦は許可しませんでした。

劉秀が邯鄲を離れると劉林が王郎を漢の成帝のご落胤だと偽って挙兵しました。劉秀の首に懸賞金をかけて命を狙いました。

そのため劉秀は鄧禹、王覇、馮異たち僅かな兵を連れての転戦になりました。

各地には王郎・劉林に反抗する者たちもいたので彼らを配下にしました。

劉楊を味方にして10万の兵を手に入れる

劉秀は王郎の配下で真定王・劉楊(「後漢書」では「劉揚」)を味方にしようと考えます。劉楊には10万の兵がいました。劉秀は配下の驍騎将軍 劉植を派遣して説得させます。劉楊の姪の郭聖通(後の郭皇后)を劉秀に嫁がせることで話がまとまります。

更始2年(24年)5月。劉楊や各地の兵を集めた劉秀は邯鄲を攻め王郎を滅ぼしました。劉林は行方不明になります。

劉秀の勢力が大きくなったのを警戒した更始帝は長安に呼び戻そうとします。

でも劉秀は河北の平定が終わっていないことを理由に戻りません。

その後、銅馬軍という地方の反乱軍を鎮圧。敗残兵を配下にしました。劉秀の兵力は数十万になりました。

更始帝は元反乱軍が多い劉秀を「銅馬帝」と呼びました。

年が明けて。建武元年(25年)劉秀は皇帝に即位します。

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