李陵 匈奴に帰化した悲運の漢の武将

前漢7 漢

李陵(り・きょう)は漢の時代の武将。

5千の兵で匈奴の単于(君主)が率いる3万の軍と戦い。匈奴軍に大きなダメージを与えましたが。最後は降伏しました。

匈奴の単于は勇敢で人柄の良い李陵に匈奴の人間になるように説得しました。李陵なかなか単于の配下になろうとはしませんでした。

でも匈奴に裏切ったと勘違いした漢武帝によって李陵の家族が殺害され。李陵は漢の武帝を恨み、匈奴の一員になって漢と戦いました。

そのため李陵は悲劇の武将として知られます。

史実の李陵はどんな人物だったのか紹介します。

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李陵の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:紀元前74年

姓名:李陵(り・りょう)
国:漢→匈奴

父:李当戸
母:不明
前妻:不明(武帝によって処刑)
後妻:且鞮侯単于の娘

子供:李陵子

漢の武帝の時代。

日本では弥生時代になります。

 

おいたち

李陵の家系は代々続く軍人の家系。祖父は「飛将軍」と呼ばれた李広(り・こう)。70回も匈奴と戦った名将でした。

父の李当戸は李広の長男。武官として仕えました。李陵が生まれる数ヶ月前に死亡しました。

李陵も若いころから武官になり、騎兵隊の隊長などを務めました。騎射(馬に乗りながら弓矢を撃つこと)に優れ、部下思いの武将でした。母親にも孝行して、人柄も良かったと言われます。

漢武帝は李陵が祖父の李広の素質を受け継いでいると考え。800騎を率いさせ調査のための遠征をさせました。このときは匈奴には遭遇しませんでしたが。漢武帝は調査結果に満足。李陵を騎都尉に昇進させ、5000の兵をあずけて酒泉郡と張掖郡に駐屯させました。

紀元前101年。武帝は李広利の部隊を大宛に遠征させました。このとき李陵は援軍として派遣されました。でも到着した頃にはすでに決着がついて李広利が勝利したあとでした。李陵は李広利の部隊と合流。その後は張掖(現在の中国甘粛省張掖市)の守りにつきました。

匈奴との戦い

紀元前99年。漢と匈奴の戦いが起こりました。武帝は弐師将軍 李広利に3万の騎兵をあたえて派遣。

騎都尉の李陵には5000の歩兵を与え輸送部隊を任せました。李陵は武帝に兵たちの技量と体力に自信があったので独立した部隊として派遣するように進言しました。

武帝は李陵が「李広利の副官になるのは嫌なのだ」と判断。そこで武帝は「李陵の部隊に配置する騎兵はない」と言うと。

李陵は「騎兵は必要ありません。少ない兵でも多くの敵を倒せます。5000の歩兵でも単于(匈奴の王)を倒せます」と言いました。

武帝は李陵の心意気を高く評価して出兵を命令。さらに強弩都尉の路博徳に軍を率いて李陵の軍と合流するように命じました。

ところが路博徳は後輩の李陵の援軍に行くのが嫌でした。路博徳は武帝に「今は秋で匈奴の馬は肥えていて戦うのはよくありません。春まで待って李陵とともに5千の兵を率いて東西から西浚稽山を攻めて単于を生け捕りにしたいと思います」と伝えました。

それを読んだ武帝は怒るとともに「李陵は怖気づいたので路博徳と共謀してこのような事を言わせたのではないか?」と疑いました。

武帝は路博徳には別の任務を与え。李陵には「9月に出発して各地を偵察してくるように」「路博徳とどんなやりとりをしたのか報告するように」と命令しました。

李陵は5千の歩兵を出して各地を偵察。地図を作り、陳步楽を都に派遣して報告させました。陳步楽の報告を聞いた武帝は喜びました。

単于と決戦

ところが李陵の5千の部隊は浚稽山で単于(匈奴の王)が率いる3万の部隊と遭遇。囲まれてしまいます。李陵は2つの丘の間に荷車でバリケードを作り、単于の部隊を迎え撃ちました。数日にわたって激しい戦いが行われ数千の匈奴兵を討ち取りました。

ところが李陵は「我が軍の士気が以前ほど上がらず、奮い立たせることができない。なぜだ? もしかして軍隊に女性がいるのか?」と考えます。調べてみると軍隊が出発する前。辺境に流された盗賊の妻や娘が軍隊の兵士の妻になっていたことがわかりました。そして彼女たちは荷車の中に隠されていたのです。李陵は部隊の中に隠れていた女性を探し出して全員斬り殺しました。

そして戦いを続行。翌日の戦いでは3千の匈奴兵を討ち取りました。李陵軍は戦いながら後退を続けました。

単于は「これは漢の精鋭部隊だ」と思い「戦いながら南(漢の領土)に向かうのはそちらに待ち伏せしている部隊がいるに違いない。これ以上追いかけるのは危険だ」と考えあと4~50里(20km)戦い続けその間に漢軍を倒せなければ撤退すると決まりました。

李陵軍は苦しいながらも戦い続け、さらに2千の匈奴兵を討ち取りました。ところが李陵軍の中から将校に屈辱を受けたという兵士が匈奴に投降。李陵軍の情報を匈奴に話してしまいます。そして漢軍の援軍は来ないこと、李陵軍の兵力も残り少ない事がばれてしまいました。

それを知った単于は李陵に投降を呼びかけました。李陵軍は抵抗を続けましたが、包囲されて四方から矢を放たれて追い詰められました。

李陵は副官の韓延年の進言を聞き入れ。部隊の解散を宣言すると、部下たちに残った食料と水を分け与えて逃げるように言いました。そして李陵と副官の韓延年は馬で匈奴軍に突撃しました。数十人の兵が後をついてきました。匈奴軍との戦いで韓延年は戦死。李陵はついに匈奴に降伏しました。

漢との国境まであと百里(40km)のところでした。

降伏した李陵に武帝が激怒

李陵の敗戦の知らせは武帝に届きました。武帝は李陵が生き延びることよりも戦って死ぬことを望みました。

やがて李陵が生きていることがわかると武帝は激怒。武帝はかつて褒めた陳步楽を叱りつけ、追い詰められた陳步楽は自害しました。大臣たちも李陵を批判。

司馬遷だけは「李陵は常にまともな人間で国に忠実でした。戦争は危険なものです。死に損なったことについては、漢王朝に恩返しをする機会をうかがっていたのでしょう」と李陵をかばいました。

李陵が降伏したころ。東部で戦っていた李広利の部隊も匈奴軍と戦ってほぼ壊滅していました。武帝は李広利軍の援軍として李陵を派遣したのですが、李陵が単于の本隊と戦って降伏したため李広利軍も援軍を得られずに敗北してしまいました。負の連鎖です。

武帝は李陵を派遣したことを悔みました。ただし生き延びて帰ってきた兵には褒美を与えました。

また武帝は李陵を庇った司馬遷を死罪にするつもりでしたが、司馬遷が謝罪して宮刑を望んだので宮刑(去勢すること。もともと去勢は死罪に次に重い刑罰でした)にしました。

家族が漢武帝に処刑される

紀元前97年。漢は大規模な軍を編成して匈奴に侵攻。合計18万あまりの兵力で3方向から匈奴を攻めました。

公孫敖は李陵を救出する命令を受けました。でも匈奴の左賢王と遭遇。戦った後、任務を達成せずに帰ってきました。

公孫敖は責任追及されるのを逃れるため、匈奴の捕虜を連れ帰り「李将軍が裏切って漢と戦うため匈奴の兵を訓練している。作戦が成功しなかったのはそのためだ」と報告。それを聞いた武帝は激怒。武帝は李陵の家族と一族を処刑しました。

もともと隴西郡の名門だった李家は信用をなくし、隴西出身の李氏なのを隠すものまで出ました。

漢に戻るのを諦め匈奴に帰化

李陵はそれまでは匈奴にいて漢に戻る機会をさぐっていたのですが。その知らせを聞いて絶望して漢に戻るのを諦めました。匈奴の文化も受け入れ、服装や習慣を変え、遊牧民の生活に完全に溶け込みました。

紀元前91年。匈奴と漢は戦いました。この戦いでは李陵は匈奴軍の一員として戦いました。李陵は匈奴の将軍とともに3万の部隊で戦いました。しかし大きな被害を出して撤退しました。

その後。匈奴と漢の使者が行き来するようになりました。

漢の使節が匈奴に来た時。李陵は使節と会い「私は漢のために5千の兵を率いて戦った。援軍が来ないから私は負けたのだ。私が漢に何をしたというのだ。なぜ私の家族は殺されなければいけないのか!」と言いました。

使者が李陵の家族を処刑した理由を伝えると、李陵は「匈奴兵を訓練したのは自分ではなく匈奴に寝返った塞外都尉の李緒だ」と伝え。李陵は部下を派遣して李緒を殺害しました。

李緒は漢では裏切り者かもしれませんが、匈奴では仲間として受け入れられています。匈奴の大閼氏は勝手に仲間を殺した李陵を殺害しようとしました。単于は李陵を庇って北部に逃しました。

遊牧民は部族長の合議制でものごとを決めます。単于(君主)といっても独裁的な権限はありません。しかも大閼氏は単于の母の実家。単于といえども大閼氏を止めることはできません。

大閼氏の死後。李陵の命を狙うものがいなくなると単于は李陵を呼び戻しました。

単于は勇敢な李陵を高く評価。李陵に自分の娘を嫁がせ、右校王に任命しました。

李陵は以前に匈奴に降伏した衛律とともに単于から重要な任務を任され、定陵王になりました。匈奴の中でも名誉ある地位につきました。

李陵は軍を任され各地で戦いました。重要な決定のときだけ宮廷に戻ってきました。

彼らは匈奴の一員となって漢軍と戦っただけでなく。漢の使者を迎えて外交交渉も担当しました。

漢の皇帝が変わって帰国の説得に来る

紀元前84年。漢の武帝が死去。息子の昭帝が即位しました。大将軍の霍光、左将軍の上官桀が皇帝の補佐役になりました。

彼らは常に李陵と親しくしていた将軍でした。そこで李陵の旧友で同郷・隴西出身の任立政たち3人を使節にして匈奴に派遣。李陵を説得して漢に帰らせようとしました。

李陵は任立政たち漢の使節を出迎えました。任立政は宴席の場で「若い主君になり、霍光と上官桀が補佐している。漢は大恩赦をするぞ。中原に来てももう大丈夫だ」と言いました。でも 李陵は「私はもう匈奴の服を着ていますよ」と言いました。

その後、衛律がトイレに行ったすきに任立政らは李陵に「すぐに漢に帰って来てほしい」とはっきり言いましたが。李陵は「二度も無様な真似はできません」と帰国の誘いを断りました。

李陵は20年近く匈奴で暮らし、紀元前74年。病死しました。

蘇武との出会い

漢にいたとき李陵と蘇武は親友でした。

李陵が匈奴に降伏する前の年。蘇武は匈奴に使者として行って匈奴に拘束されました。単于は蘇武に匈奴に降伏するように言いましたが蘇武は拒否しました。漢にも戻れない蘇武は北部で牧畜をして暮らしていました。

李陵が匈奴に降伏したとき、李陵には罪悪感があったので蘇武には会いませんでした。

年月がたち、単于は李陵と蘇武が親友だと知ります。そこで単于は李陵を蘇武のもとに派遣、蘇武に降伏するように説得させました。李陵は武帝の非道さをうったえ蘇武を匈奴に寝返らせようとしましたが、蘇武は頑なに拒否しました。

説得は無理だと思った李陵は諦めて帰りました。そして妻に頼んで牛や羊を蘇武に贈らせました。自分が贈ったら匈奴で得た富を自慢していると思われたくないからです((匈奴では夫と妻は別々に財産を管理しています)。

前85年。狐鹿姑単于が死去。すると匈奴で後継者争いがおこりました。匈奴は漢に内紛につきこまれないように漢との和睦することになり。友好の証として匈奴に降伏を拒否し続けている蘇武と馬宏を漢に戻すことにしました。

李陵は蘇武と別れるとき「もし私の家族が漢に殺されなければ、曹沫や荊軻那がしたように単于を捕らえて罪滅ぼししたかった。でも漢の皇帝は残酷な方法で私の家族を殺し、私にはもう何も残っていない。今こうして話しているのは私の本心をわかってもらうためだ。一度別れれば、もう会うことはないだろう」と言いました。

その後。蘇武たちは漢に戻り熱烈な歓迎を受けました。

蘇武は漢で匈奴への降伏を拒否した忠義者として称賛されました。

息子は内乱で死亡

李陵は匈奴の王女と結婚。二人の間に李陵子が生まれました。

李陵の死後。

紀元前56年。呼韓邪単于の時代。李陵子は別の王族をかついで烏籍単于を即位させました。そのため呼韓邪単于によって処刑されました。

 

李陵の子孫を名乗る者たち

後漢の末期から普にかけて北方の遊牧民が中原に移住。五胡十六国時代から南北朝時代には中原に遊牧民の国がいくつもできました。

そのとき、遊牧民の中には「隴西李氏の子孫」を名乗る者が何人も現れました。

北周の将軍・李賢は生前から隴西李氏を名乗っていました。李賢は漢人ではなく鮮卑です。

唐を建国した李淵とその祖先の李虎もそうです。唐の李氏も隴西李氏を名乗っていますが違います。李淵の家系はかつて大野(だいや)と鮮卑姓を名乗っていました。鮮卑(せんぴ)か鮮卑化した漢人なのですが、例え祖先が漢人だったとしても隴西李氏ではないだろうといわれています。

こうした「隴西李氏の子孫」を名乗る人々のほとんどは嘘だといわれます。

 

テレビドラマ

解憂 2016年、中国 演:劉冠成

 

 

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