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蕭継先・蕭思温の養子になって遼聖宗や蕭太后を支えた武将

契丹 9 その他の国や民族

蕭継先(しょうけいせん)は10世紀ごろの契丹の政治家で武将。

叔父の蕭思温の養子になり。
跡継ぎのいなかった蕭太后の実家を継ぎました。

契丹の景宗、聖宗の時代に活躍。

戦場で負けたことがなかったといいます。

史実の蕭継先はどんな人物だったのか紹介します。

 

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蕭継先の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明
享年:58

姓 :蕭(しょう)
名称:継先(けいせん)
   継遠、蕭寧遠とも書きます。
字:楊隠
小字:留只哥

国:契丹
地位:
称号:

父:不明
義父:蕭思温
母:不明
妻:耶律観音女(斉国公主)

子供:
蕭紹宗
秦国妃。7代皇帝・興宗の妃
齊国妃。耶律 胡都堇の妃

彼は聖宗の時代に活躍した人物です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。960年代生まれと思われます。

父母の詳しい資料はありませんが。蕭思温の甥。睿智蕭皇后のいとこです。一族の中でもそれなりに高い家柄だったようです。

幼い頃から賢かったといいます。

叔父の蕭思温には息子がいなかったので、睿智蕭皇后の命令で蕭思温のあと継ぎました。

睿智蕭皇后も蕭継先を可愛がりました。

景宗 耶律明扆と皇后 蕭綽の娘と結婚

乾亨初年(979年)。景宗 耶律明扆と睿智蕭皇后 蕭綽の長女・斉国公主 耶律観音女と結婚。駙馬都尉になりました。駙馬都尉とは「皇帝の娘婿」という意味です。 耶律文殊奴の義理の兄になります。

皇室の耶律家と蕭家は代々結婚を繰り返してきました。皇后 蕭綽の母・耶律呂不古も太宗 耶律堯骨の娘でした(穆宗や耶律罨撒葛の妹)。皇后 蕭綽が実家の跡継ぎに自分たちの娘を嫁がせようと考えるのは当然かも知れません。でも耶律観音女はまだ12歳でした。

契丹女性は15、16歳で結婚するのが普通なので当時の基準からみても若い結婚です。これは皇后 蕭綽が早く自分の実家に力を持たせて安定させたいという願いからのようです。

なにしろ蕭継先は養子です。蕭思温の死後、蕭綽の実家は后族の中でも力が弱まっていました。

一口に后族といってもたくさんの家があります。后族の中でも勢力を争っているのです。そこで蕭継先に皇帝と皇后の娘を嫁がせて皇帝との強いつながりを持たせようとしたのでした。

 

聖宗 耶律文殊奴の時代

982年。景宗 耶律明扆が死去。聖宗 耶律文殊奴が即位しました。蕭綽は皇太后になりました。

統和4年(986年)11月。宋軍が攻めてきました。蕭継先は騎兵隊を率いて宋軍を迎え撃って撃破。多くの捕虜を捕らえました。

聖宗 耶律文殊奴から称賛され、北府宰相に任命されました。といってもこのときの聖宗 耶律文殊奴は14歳なので人事は蕭太后が決めています。

蕭継先はいとこの七光りだけで出世したのではなく、蕭太后の期待に応えられる有能な人物でした。

統和6年(988年)12月。蕭継先は安平を視察しました。

統和7年(989年)2月。同中書門下平章事になりました。

統和17年(999年)10月。聖宗と蕭太后は南征を決定。契丹軍が宋に侵攻しました。

蕭継先は狼山の石塁を陥落させました。瀛州で宋軍と戦って宋の将軍・康昭裔・宋順たちを捕らえました。さらに楽寿県を占領。遂城の河岸では騎兵で宋軍に突撃。宋軍を撃破しました。

統和20年(1002年)3月。再び宋を攻撃。

統和22年(1004年)11月。聖宗が自ら南征して通利軍を落としました。蕭継先もこの遠征に加わりました。蕭継先は聖宗からも褒められています。

捷力と称された。

統和28年(1010年)。聖宗が高麗に親征。このときは蕭継先は首都・上京に残って留守を務めました。高齢だから残ったと言われますが。蕭継先が信頼されたいたという理由もあるでしょう。

詳しい死亡年はわかりませんが、それからしばらくして蕭継先が死去。享年58。

蕭継先は裕福な家の出身で皇帝や蕭太后に気に入られ出世しました。でも生活は質素だったといいます。景宗の世代が次々にいなくなる中で蕭太后と聖宗を支えた新しい世代の人物でした。家柄だけでなく能力もある人物だったようです。蕭継先を蕭家の後継者に選んだ睿智蕭皇后の見る目は確かだったということでしょう。

 

テレビドラマ

 燕雲台 2020年、中国 演:・杜承峻

 

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