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泥靡・狂王と呼ばれた烏孫の昆弥(王)

烏孫 9 その他の国や民族

泥靡(でいび)は紀元前1世紀ごろの烏孫(うそん)の昆弥(王)。

「狂王」としても知られます。

烏孫の昆弥だった軍須靡(ぐんしゅび)と匈奴出身の左夫人の間に生まれてた子供です。

軍須靡の死後。泥靡が成人するまでという条件で翁歸靡(おうきび)が昆弥になりました。

でも翁歸靡は自分のあとは泥靡ではなく劉解憂との間に生まれた元貴靡を昆弥にしました。ところが翁歸靡は急死。烏孫の貴族たちは泥靡を昆弥にしました。

泥靡は劉解憂を夫人にしました。でも二人の仲は悪く。劉解憂は漢の使者と共謀して泥靡を暗殺しようとします。

暗殺は失敗しますが、泥靡は反乱にあって死亡しました。

史実の泥靡はどんな人物だったのか紹介します。

 

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泥靡の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:紀元前53年

名称:泥靡(でいび)

国:烏孫(うそん)
地位:昆弥(王)
称号:狂王

父:軍須靡(昆弥)
母:匈奴夫人(左夫人)
妻:劉解憂 他

子供:細沈痩(さいしんそう)、母:不明
鴟靡(しび)、母:劉解憂

彼は烏孫の昆弥(王)です

日本では弥生時代になります。

 

おいたち

生まれた年は不明。

父は烏孫(うそん)の昆弥(こんび)軍須靡(ぐんしゅび)

母は匈奴(きょうど)出身の左夫人。

紀元前105年。漢の劉細君が匈奴の昆弥・獵驕靡に嫁ぎました。匈奴夫人はそのころ匈奴から獵驕靡に嫁ぎました。

匈奴夫人が左夫人。劉細君が右夫人になりました。

紀元前103年に獵驕靡が死去して、軍須靡があとを継ぎ。匈奴夫人と劉細君は軍須靡と再婚。

その後、年はわかりませんが匈奴夫人と軍須靡との間に息子が誕生しました。

左夫人の息子は泥靡(でいび)と名付けられました。

なぜ名前に「泥」がついているの?

「泥靡」は烏孫人の発音に漢が勝手に漢字をあてはめたもの。元の発音にどんな意味があるのかはわかりません。

烏孫は日常では漢字は使いません。漢字は漢があてはめたもの。

中国人は当て字をつくるときにもある程度の意味を込めています。

どういうことかというと。

日本人は「亜米利加」と書いて「アメリカ」と呼びます(今は省略して米国)。でもアメリカは「米の国」ではありません。おかしいです。でも「亜米利加」の漢字は発音だけが必要で意味は関係ありません。日本人は漢字の意味を考えずに使っているからです。

中国人は違います。「邪馬臺国」は日本人の発音に魏で漢字をあてはめたものです。漢字に邪(よこしま)な国という意味を込めています。邪馬臺国に馬はいませんけれど「獣のようなやつら」くらいの意味でしょう。「卑弥呼」は「卑しい女」という意味。貢物や奴隷を持ってきた蛮族の国の女酋長だから卑しい女なのです。もちろん当時の日本人が「邪馬臺国」や「卑弥呼」のもとになった言葉に込めた意味は違います。

日本人は気がついていませんが中国人の考え方はそういうものです。

他の国でもいっしょです。「烏孫」は「からす、まご」どういう意味かはわかりませんが(烏への信仰があったのかもしれません)。まだましな方です。「匈奴」は「わるいやつ」の意味が込められた差別的な意味の漢字です。

だから「泥靡」に「泥」の漢字を使ったのは漢にとっては嫌な人物だったからです。同じ発音で他にもっといい漢字があるはずです。

また「靡」には「散る」「滅びる」「なびく」などの意味があります。やはりいい意味の漢字ではありません。

紀元前102年。右夫人・劉細君が死去。漢から劉解憂が和親公主としてやってきました。

劉解憂が来たときに泥靡が生まれていたかはわかりません。

翁歸靡の時代

紀元前93年。軍須靡が死去。
軍須靡の長男・泥靡はまだ小さかったので従兄弟の翁歸靡(おうきび)が昆弥になりました。どのくらいの年齢だったかはわかりません。

遊牧民の君主は権威だけの存在ではなく実際に族長や臣下の意見を聞いて会議をまとめます(独裁的な力はありません)。なので幼い王では務まりません。もし幼い後継者しかいない場合は遊牧民社会では母親が一時的に国王的な立場にたち、母方の親族が会議のまとめ役をします。

匈奴夫人の親族は匈奴人です。軍須靡は匈奴に政治の主導権を渡したくなかったのでしょう。

友好は保ちたいけど乗っ取られたくない。軍須靡は微妙なバランス感覚で政治を行っていました。

というわけで軍須靡の遺言で「泥靡が成人したら昆弥の位は泥靡に譲る」ことになっていました。

でも、翁歸靡は解憂公主や漢と結託。翁歸靡と解憂公主の子供・元貴靡(げんきび)を太子(王位後継者)にしてしまいます。どうやら漢の皇帝の思惑もあったようです。翁歸靡は匈奴と断絶。元貴靡と漢の公主との結婚を漢の武帝に希望しました。

泥靡と支持者にしてみれば、翁歸靡の次は泥靡ではなかったのか?軍須靡の遺言はどうなったんだ?と思います。

紀元前60年。漢の公主・劉相夫が元貴靡と結婚するところまで決まり、翁歸靡が敦煌まで劉相夫を迎えに行ったのですが。翁歸靡が急死。元貴靡と劉相夫の結婚は中止になりました。翁歸靡の死後、烏孫の貴族たちが泥靡を昆弥にしました。

翁歸靡の死因は不明。どうやら匈奴派と漢派の対立があったようです。もしかすると暗殺されたのかもしれません。

 

昆弥になった泥靡

一時は元貴靡に決まりかけましたが、烏孫国内の匈奴派の巻き返しがあって泥靡が烏孫の昆弥になりました。

遊牧民社会では前の王の妃は、次の王と再婚します。これは結婚は部族と部族の同盟。結婚するとお付きの人たちも大勢やってきます。部族の同盟を維持して、他の部族から来た人たちの立場を保証するためにこのような制度があります。

解憂公主は泥靡と再婚することになりました。

もちろん漢にはこのような習慣はないので前の和親公主の劉細君は嫌がりました。劉解憂がどう思ったかは記録にありませんが、嫌だったでしょう。

泥靡の生母・匈奴公主はさすがに再婚はせず。昆弥の母(太后)になります。

泥靡と劉解憂の間には鴟靡(しび)が生まれました。

でも泥靡と劉解憂は仲はよくなかったようです。

劉解憂と翁歸靡は仲が良かったようですが。漢の記録によると泥靡は凶暴な性格で劉解憂とは非常に仲が悪かったといいます。

劉解憂とすれば自分の息子が次の昆弥になるはずでしたし。翁歸靡が死んだのは匈奴派の仕業と思っていたでしょうから。匈奴派に担がれて昆弥になった泥靡を好きになれるはずがありません。

でももともと泥靡が成人したら昆弥の座を継がせる約束になっていました。それを翁歸靡は約束を破って自分の子に継がせようとしたのです。

烏孫の人々にしてみれば約束を破ったのは翁歸靡です。

泥靡が本当に凶暴な性格だったかはわかりません。乱暴なところはあったでしょうし、もともと漢の人間と遊牧民は習慣も考え方も違いますからうまくいかないこともあるでしょう。

少なくとも劉解憂とは仲がよくなかったようです。

泥靡暗殺計画

やがて劉解憂は漢の使者・司馬魏、任昌と協力して泥靡を暗殺しようとしました。

漢の使者が同席した宴席の場で泥靡は漢の使者に切りつけられました。泥靡は傷をうけましたが、逃げることに成功。

息子の細沈痩に命令して、漢の使者と劉解憂が立て籠もる赤谷城を攻めさせました。西域都護の鄭吉がやってきて劉解憂たちは助かりました。

漢の宣帝は中郎将の張遵を泥靡に派遣。泥靡を薬で治療して金二十斤を贈ってなだめました。

そして泥靡の暗殺を企てた魏和意と任昌を長安に連行、処刑しました。

漢の宣帝は車騎将軍・長史の張翁(ちょう・おう)を派遣して泥靡の暗殺未遂について劉解憂を尋問。このとき劉解憂の頭を掴んで罵りました。劉解憂は張翁の態度が不満なので宣帝に訴え。張翁は帰国後に処刑されました。

泥靡の暗殺計画は漢も認めていたのでしょう。烏孫が漢の敵になっては困るので泥靡をなだめようとしたのです。

泥靡の最期

紀元前53年。翁歸靡の息子の烏就屠(としゅうと)が挙兵。烏就屠の母は劉解憂ではありません。烏就屠の母は遊牧民出身の女性です。烏就屠にとっても泥靡は親の仇に思えたのかもしれません。解憂たち漢派が泥靡を殺害しようとしたとき。烏就屠も北方に逃げました。

その後、泥靡は烏就屠に攻められて死亡しました。

烏就屠は自ら昆弥を名乗りました。

その後、烏就屠は漢に攻められて降伏。劉解憂の息子の元貴靡が大昆弥になり。烏就屠は小昆弥になります。

敵の内部の者をそそのかして争わせるのは中国の常套手段です。このときすでに烏孫が分裂するように工作していたのかもしれません。

こうして烏孫は漢の属国になり。自立した国ではなくなります。

泥靡は「狂王」として歴史に名を残すことに

漢は泥靡に「狂王」という不名誉な称号をつけ。漢に逆らった悪者として歴史に名を残しました。

烏孫には「昆弥」という称号があります。わざわざ烏孫側から「狂王」と名乗るはずがありません。「○王」は明らかに中国式の称号です。

泥靡は漢にとっては悪玉かもしれません。もともと軍須靡の遺言で将来は泥靡が昆弥になるはずでした。匈奴派や漢に服従したくない人々にとっては、漢への抵抗の中心になる人物でした。

でもこのころ漢と匈奴の力関係が逆転して漢が強くなっていました。遊牧民は勝ち馬に乗るのが好きなので、分が悪くなると裏切りやすくなります。逆に言うと泥靡には軍須靡のように様々な立場の人をまとめる力がなかったのです。

私たちは漢の残した資料でしか烏孫を知ることはできません。当然、漢に都合のいいように書かれています。泥靡が乱暴者、狂王と悪いように書かれているのは漢に都合の悪い人物だったからかもしれません。泥靡の本当の姿は誰にもわからないのです。

どちらにして泥靡の死後、烏孫は独立を失い漢の属国になるのでした。

大国に挟まれた小国のつらいところです。

テレビドラマ

解憂   2016年、中国 役名:泥(でい) 
 劇中では赤ん坊。母の左夫人が解憂と同じ時期に烏孫に来た設定のため。左夫人と解憂が近い年齢に。左夫人が去り、泥は解憂に託されます。史実と大幅に違う展開になってます。

史実通りならこのあと翁歸靡が死亡して、解憂は泥と結婚させられ。解憂が泥を暗殺しようとするドロドロの展開に。ドラマよりその方が面白かったかも。

 

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