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蕭撻凜(しょう・だつりん)聖宗・蕭太后を支えた名将軍

契丹 9 その他の国や民族

蕭撻凜(しょう・だつりん)は遼(契丹)の貴族。

聖宗の時代に活躍した将軍です。

耶律 罨撒葛の死後、北西部の守備の司令になった皇太妃 蕭胡輦を助けて軍を率いたり。北部の遊牧民の反乱鎮圧。北宋との戦いで活躍しました。

契丹軍でも中心的な将軍でしたが。1004年の聖宗・耶律文殊奴と蕭太后が行った北宋攻めで戦死してしまいます。

史実の蕭撻凜はどんな人物だったのか紹介します。

 

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蕭撻凜の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1004。

姓 :蕭撻凜(しょう・だつりん)

父:蕭術魯列

国:遼(契丹)
地位:

彼が生きたのは遼の初代太祖から5代景宗の時代です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。

契丹の后族の出身。
蕭思温の甥です。
蕭燕燕(蕭太后)姉妹とは従兄弟になります。

父は馬群侍中の蕭術魯列です。

若いころは天文学を学びました。

皇族の耶律昭からは博学で文章が上手いと褒められたことがあります。

聖宗の時代

982年 聖宗・耶律文殊奴が即位しました。

統和4年(986年)。契丹で幼い皇帝が即位したのを侮った北宋の太宗は契丹攻撃を決定。北宋軍が燕雲地域に攻めてきました。山西の諸邑が陥落します。

蕭撻凜は枢密使・耶律斜軫の指揮のもとで戦って宋軍を撃破。朔州でで宋の将軍・楊業を捕らえました。

統和6年(998年)。蕭撻凜は南院都監に任命されました。

聖宗の南征に従って沙堆を攻撃。奮戦しましたが負傷しました。

統和7年(989年)。右監門衛上将軍・検校太師の位を与えられました。

統和11年(993年)。聖宗と蕭太后は北宋とともに契丹包囲網に加わっていた高麗の攻撃を決定。東京留守(とうけいるす)・蕭恒徳とともに出陣。高麗を降伏させ、北宋の繋がりを断ちます。

統和12年(994年)。このころ皇太妃 蕭胡輦は西北部を守っていました。皇太妃 蕭胡輦の命令を受けて烏古・永興宮分軍を率いて西夏を討ちました。

耶律昭建の提案により、蕭撻凜は貧しい人々を助けるため税金を少なくしたり、家畜の放牧地を分散させて土地を利用しやすくしたりしました。さらに軍隊を訓練しました。

統和14年(996年)。契丹に抵抗する部族の首長・阿魯敦たち60人を斬って反乱を鎮圧しました。

その後。「蘭陵郡王」に任命されました。

統和15年(997年)。敵烈部が詳穏(部族を統治する役人)を殺して逃走。西北部を荒しました。蕭撻凜は騎馬隊を率いて氾濫した部族を討って服属させました。

聖宗は蕭撻凜の働きを賞賛しました。

蕭撻凜は契丹に服従しない部族がいるので3つの城を建てて辺境の守りを強化するように進言。聖宗は許可しました。

その後。南京統軍使になりました。

統和20年(1002年)4月、宋軍を泰州で撃破した。統和21年(1003年)4月、望都で王継忠を捕らえた。

 

蕭撻凜の最期。澶淵の盟に至る戦い

聖宗・耶律文殊奴と蕭太后は長年の宿敵・北宋攻めを決定。

統和22年(1004年)。閏月、遂城で宋軍を破り、祁州を落としました。

11月。蕭撻凜は軍を率いて黄河の北側にある澶淵まで進軍。黄河には北宋軍がいて、真宗 趙恒が軍を率いていました。契丹軍と北宋軍は睨み合いました。

蕭撻凜は自ら兵を率いて地形を調べ。さらに宋の羊観・塩堆・鳧雁を奪取しました。

ところが油断した蕭撻凜は少数の騎馬兵を連れて偵察にでかけました。敵の陣地から400メートルのところで床弩の攻撃を受けて頭を負傷。

床弩とは兵隊の持つ弩級(クロスボウ)を大型化したもの。大砲のように床に設置されて数人がかりで使用。長さ2メートルの大型の矢を撃つ兵器です。大砲のない時代には大砲のような役割をしました。集団で向かってくる敵軍めがけて撃つものなので。これで動いている人間を狙い撃ちするのは不可能に近いですが。命中しなくても地面に着弾した衝撃で敵兵を殺傷することができます。撻凜は不運にも頭に大怪我を受けてしまいます。

蕭撻凜はすぐに天幕まで運ばれました。しかしその日の夜に死亡。蕭太后は涙を流して悲しみました。蕭太后は5日間仕事を休みました。

矢が直撃したら即死ですがその日の夜までは生きていたようです。着弾した破片が頭に当たったか、馬から落ちて頭を打ったか。その両方かもしれません。

戦闘は名将軍の死亡は契丹軍の将兵にショックを与えました。蕭撻凜は契丹軍の中心的な人物。彼の死後、戦闘は次第に収まり契丹軍内部でも和平を求める声が高まってきました。

しかも契丹の戦いは短期決戦が基本です。契丹軍は補給部隊はほとんど連れていません。聖宗と蕭太后は北宋は脅せば引くと思っていましたが、皇帝の宋真宗が前線まで出て来たのは意外でした。さらに契丹軍では軍の中心になる蕭撻凜の死亡も重なってしまいました。

もともと戦う気のない宋真宗は以前から和睦の使者を送って来ていましたが。蕭太后は無視していました。でも蕭太后はこれ以上粘っても良い結果は得られないと判断。

宋真宗の使者に和睦に応じると返答しました。そして「澶淵の盟」が結ばれ契丹と宋は和睦しました。そしてその後100年近く契丹と北宋との間には大きな戦いがなくなります。

蕭撻凜の死は契丹軍には大きな損失ですが、結果的に平和をもたらしたのかもしれません。

その後。蕭撻凜の子・蕭慥古は南京統軍使になりました。

 

テレビドラマ

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