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韓徳譲 は 契丹(遼)で蕭太后と聖宗を助けた漢人宰相

契丹9 その他の国や民族

韓徳譲(かん・とくじょう) は 10世紀ごろの契丹(遼)の政治家。

遼は遊牧民の契丹人が作った国。燕雲十六州を領土にもっていたので国民の半分ほどが遊牧民ではなく漢人でした。

契丹(遼)は漢人を採用して中華王朝式の制度も取り入れ、農耕地帯も支配しました。契丹に採用された漢人官僚のなかでも最も出世したのが韓徳譲 です。

聖宗の即位後には幼い聖宗と摂政の蕭太后を補佐しました。契丹(遼)の宰相になり臣下で最高の地位につきます。韓徳譲は蕭太后の寵愛をうけ様々な権限を与えられました。その権力は皇族を凌ぐほどでした。

韓徳譲は蕭太后の愛人だったとも言われます。

史実の韓徳譲 はどんな人物だったのか紹介します。

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韓徳譲の史実

いつの時代の人?

生年月日:941年
没年月日:1011年

姓名:韓徳譲(かん・とくじょう) → 耶律隆運(やりつ・りゅううん)
字:致堯
国:大契丹国(遼)
地位:大丞相
称号:普国王

父:韓匡嗣(かん・きょうし)
母:蕭 欧妮拏思
妻:?

子供:なし

彼が活躍したのは景宗~聖宗の時代です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

韓徳譲の祖父 韓知古は若いころ契丹に拉致されて 宮分人(王宮で働く奴隷)になりました。遼太祖 耶律阿保機 に仕え中書令に出世しました。

父親の 韓匡嗣は遼景宗から「秦王」の称号を与えられました。

韓知古、韓匡嗣はそれぞれ契丹の蕭氏と婚姻しています。
韓匡嗣は医術が得意で述率太后に可愛がられました。

941年。韓徳譲が誕生
韓匡嗣の四男でした。

母親は契丹の后族出身の 蕭 欧妮拏思。
契丹の皇后は代々蕭氏から選ばれているので后族といいます。韓匡嗣は述率太后に気に入られていたので蕭氏との結婚が許されたのでしょう。

でも蕭氏といってもいろいろあって、蕭燕燕の実家のような宰相を出す家もあればそうでない家もあります。

 

遼景宗の時代。

970年(保寧2年)。韓徳譲は 東京供奉官になりました。

その後は順調に出世しました。

979年(保寧11年) 父の韓匡嗣が南京(なんけい:今の北京)留守になりました。「留守」とは主要な都市などを守る軍の司令官のこと。

韓徳譲は 権知南京留守になりました。父の副官のようなものです。

韓徳譲が南京(なんけい:今の北京)にいたとき。南京幽都府を北宋が攻撃してきました。韓徳譲は遼興軍節度使に任命され宋軍の撃退しました。

その後朝廷の大臣になり南院樞密使を務めました。

当時の漢人臣下の中では最も地位の高い人物でした。

聖宗の補佐を任される

景宗4年(982)9月。景宗が祥古山に狩りにでかけていたとき、重病にかかりました。韓徳譲は招集の命令が来る前に親族十数人を連れて天幕に駆けつけました。

景宗は臨終の間際に12歳の息子の隆緒に皇帝の座を譲ると宣言。韓徳譲と耶律斜軫はそろってその命令を聞きました。

皇后の蕭綽は二人を前にして「夫を失った母と子は弱く、一族は強大です。国境も定まっていないのに、私はどうしたらよいのでしょう」と泣いてみせました。

韓徳譲と耶律斜軫は「私を信じてください、心配することはありません」と答えました。

そして韓徳譲は蕭綽に「大臣を交代させ、諸王を自分の領地に戻らせ、諸王が個人的に皇帝に会えないようにして、諸王の軍事力を奪いましょう」と提案しました。

聖宗の時代

982年。聖宗が即位しました。

遼聖宗は12歳だったので蕭太后に「天皇太后」の称号が与えられ攝政になりました。

韓徳譲は蕭綽から”寵任”されました。総管宿衛の役職と開府儀同三司の称号が与えられました。非常に頼りにされていたようです。

その年の12月。父の韓匡嗣が死亡。韓徳譲は父の喪に服すため3年間の休職を申請しました。儒教では実の親が死亡すると仕事を休んで3年間の喪に服すことになっていました。

しかし蕭太后は却下、冠軍大将軍、左金吾衛上将軍,侍中に任命。「守正功臣」の称号を与えました。

983年(統和元年)。国名を「大遼」から「大契丹国」に変更。

985年(統和3年)11月兼政事令になりました。

 

耶律虎古 撲殺事件

耶律 虎古(やりつ・ここ)は皇族の遠縁に当たる人物で景宗が採用しました。耶律虎古は有能だったので蕭太后も呼んだのでした。

985年(統和3年)。朝廷の会議で韓徳譲と耶律虎古の意見が対立。二人は言い争いになりました。

耶律虎古は過去に韓匡嗣を景宗の前で侮辱したことがありました。そのことが頭にあったのでしょうか。

韓徳譲は我慢できなくなり、衛兵が持っていた杖を奪い取ると耶律虎古の頭を殴って殺してしまいまいました。

耶律虎古は性格に荒いところはありますが極悪人ではなく契丹に貢献した人物でした。韓徳譲は特に落ち度もない耶律虎古を殺したので皇族から非難されました。でも韓徳譲の持つ権限が大きいことと、蕭太后が韓徳譲を庇ったので処分はありませんでした。

蕭太后や聖宗の遠征に参戦

986年(統和4年)。宋の太宗が再び兵を派遣し。幽州の北部を攻撃してきました。韓徳譲は蕭太后に随行して遠征し、宋軍を撃退するのに貢献しました。

洛京留守、守司徒、河南尹を任され。「楚国公」の爵位を与えられました。北府宰相室昉共執国政

988年(統和6年)。韓徳譲は聖宗の宋攻めに付き従い沙堆に夜襲をかけてきた宋軍を撃退しました。その後、宋の将軍 李継隆と戦い破りました。

この功績で「楚国王」の爵位が与えられました。

993年(統和11年)。韓徳譲の母親 秦国太夫人 蕭氏が死去。

999年(統和17年)。韓徳譲とともに蕭太后を支えてきた北院枢密使 魏王 耶律斜軫が死去。韓徳譲が北院枢密使になりました。耶律斜軫の死で韓徳譲の権力はますます強くなりました。食邑(領地)8千戸を加増しました。

その後、「大丞相」になり「斉国王」の爵位を与えられました。

1004年(統和22年)。韓徳譲は聖宗、蕭太后とともに宋に遠征。この戦いで宋を破り「澶淵之盟」と呼ばれる条約を結びました。

皇族扱いになる

このころ蕭敵魯によって韓徳譲に国姓の「耶律」を与えることが提案されていました。

12月。蕭太后は韓徳譲に「耶律」の姓を与え「普国王」の爵位を与え食邑2千戸を加増しました。

韓徳譲は皇族と同列の席に座ることが許され、下拜(皇帝に対して深々と礼をすること)しなくてもいいようになりました。

1年後。韓徳譲は「宮分人」の身分から解放されました。契丹皇族の一員になりました。

1009年(統和27年)12月。蕭太后が死去。
翌年の4月。蕭太后の葬儀が終わると。聖宗は「天子には兄がいなければいけない」という理由で自分の名から一文字をとって「隆運」の名を韓徳譲に与えました。

韓徳譲、改め「耶律隆運」は「皇帝の兄」の地位を得ました。

1010年(統和28年)10月。聖宗は高麗に遠征。韓徳譲(耶律隆運)も遠征についていきましたが遠征中に病に倒れてしまいます。聖宗と皇后が看病しました。

1011年(統和29年)3月6日。韓徳譲は死去。享年71。

親王の格式で葬られました。景宗や蕭太后の墓に合葬されました。

 

 

テレビドラマ

千秋太后 2009年、KBS 演:李振宇
燕雲台 2020年、中国 演:竇驍(ショーン・ドゥ)

 

蕭燕燕(蕭太后)と韓徳讓は本当に恋人同士だったの?

 

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