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葛勒可汗 モユンチョル(默延啜)とは唐を救ったウイグルの王

ウイグル 9 その他の国や民族

葛勒可汗(かつろくかがん)默延啜(モユンチョル)はウイグル帝国の第2代カガン(可汗=皇帝)です。

別名はバヤンチョル。

即位後、葛勒可汗(かつろくかがん、ゲレイカガン)と名乗りました。唐から贈られた称号から、英武可汗(えいぶかがん)とも呼ばれます。

ウイグルで初めて城塞都市を建設し。唐で安史の乱が起きたときは、援軍を送り唐を助けました。唐とは友好的なウイグルの王です。

ウイグル人の残した記録は少ないので中国の歴史書から想像するしかありません。モユンチョルは自分たちの言葉で記した石碑を残したため、わりと詳しいことがわかっている人物です。

史実の默延啜(モユンチョル)はどんな人物だったのか紹介します。

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の史実

いつの時代の人?

生年月日:713年
没年月日:759年

名称:モユン・チョル(默延啜)
別名:バヤンチョル
地位:第2代ウイグルカガン
称号:葛勒可汗(かつろくかがん、ゲレイカガン)、英武威遠毘伽可汗
諡:登里囉沒蜜施頡翳徳蜜施毗伽可汗(テングリダボルミッシュエルエトミッシュビルゲカガン)
氏族:薬羅葛(ヤグラカル)氏
父:クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅、初代ウイグルカガン)
母:
妻:寧国公主(粛宗の娘)

子供:
葉護太子
牟羽可汗(第3代ウイグルカガン)
骨啜特勤

毘伽公主(敦煌王・李承寀の妻)

日本では奈良時代になります。

ウイグル帝国とは

ウイグル帝国は8から9世紀にモンゴル高原を中心に広い範囲を支配した遊牧騎馬民族の帝国。ウイグル可汗国、ウイグル国とも書きます。

漢字では”回紇かいこつ”や”回鶻かいこつ”と書きます。古いウイグル語の発音に漢字を当てはめたものです。

可汗(カガン)とは北アジアの遊牧騎馬民族で「皇帝」を意味する称号。後に訛って「カアン」や「ハーン」になりました。

8世紀前半。モンゴル平原はアシナ(阿史那)氏がカガン(可汗=皇帝)を務める第二テュルク帝国(東突厥・後突厥とも)が支配していました。ウイグル部も東突厥の支配下にありました。アシナ氏の支配に抵抗した部族がテュルク帝国から独立します。

744年。部族長達はウイグル部の族長・クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)をカガン(可汗)に選びました。遊牧民は荒々しいイメージがありますが意外と独裁はしません。族長達が相談して自分たちの王を決めるのです。

新しい可汗の出身部族の名をとってウイグル帝国(回紇)とよばれます。

おいたち

生年は713年が有力です。瀚海という場所で生まれました。

父はウイグル(回紇)の部族長・クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)
母は不明です。

742年ごろ。父クトゥルグ・ボイラ達いくつかの部族は東テュルク帝国に背いて独立。

744年。父・クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)たちがテュルク帝国のオズミシュカガン(烏蘇米施可汗)を殺し、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)が新しい可汗になりました。懐仁可汗(かいじんかがん)と呼ばれました。

懐仁可汗は唐に使者を送り奉義王の称号を得ました。ウイグル帝国は誕生したときから唐とは良好な関係を築いていました。

744年。父によってシャッド(カガン・テギンに継ぐ3番めの地位、総督)に任命されました。兄テイビルジが2番めに高い役職に付いていました。この時点ではテイビルジが後継者に近い立場でした。

745年。父・クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)が東テュルクの白眉可汗を倒してテュルク帝国を滅亡させました。

2代目可汗になる

747年。父・懐仁可汗が死亡。モユンチョル(默延啜)は兄テイビルジを追放。

遊牧民には長男があとを継ぐという考えはあまりありません。実力のある者・周囲から認められた者が後継者なのです。モユンチョル派とテイビルジ派が争い、モユンチョル派が勝ちました。

モユンチョル(默延啜)が新しい可汗になりました。葛勒可汗(かつろくかがん)と名乗りました。

唐に使者を送り正当な後継者であることをアピールしました。

息子たちを東部族と西部族の副総督に任命。

750年。カルーク、バスミール、キタイ(契丹)の援助を受けていた兄テイビルジを捉えて処刑しました。

モユンチョル(默延啜)は3年かけて自分の政権の基礎を作りました。

ウイグル初の城塞都市バイ・バリクを作る

750年。城塞都市バイ・バリクの建設を開始。「バイ」はテュルク語で「冨」、「バリク」は「城」です。ソグド人や漢人を呼び寄せて造らせました。唐の歴史所には「富貴城」と書かれています。

バイ・バリクは北・中央アジアの遊牧民が作った初めての城塞都市です。それまでのウイグル人には都市を作って定住する習慣はありません。ウイグル人がウイグル人や漢人との交流によって都市の必要性を感じていたこと。ソグド人や漢人を住まわせて交易を行う拠点が必要になったので作ったようです。

他にも、オルホン川流域の平原に宮殿をたてたと記録されています。

安史の乱

唐から援軍要請が来る

755年11月。唐で安禄山が反乱を起こしました。
唐はあっという間に首都・長安を占領され皇帝・玄宗は長安を捨てて蜀に避難しました。

756年。玄宗が退位して、粛宗が即位しました。

粛宗はウイグルに援軍を求めるため、従兄弟の敦煌王・李承寀と将軍の石定番を使者として派遣してきました。

ウイグルと唐との間で交渉が行われました。モユンチョルは唐に対して条件を出します。中国皇帝の娘をウイグル皇帝に嫁がせ、毎年ウイグルに貢物を送る。というものです。交渉は成立しました。このような条約は中国王朝が異民族を征服する力がないときによく行われます。

満足したモユンチョル(默延啜)は娘(毘伽公主)を敦煌王・李承寀に嫁がせました。

756年11から12月。安禄山側の反乱軍が粛宗のいる霊武を襲撃。
反乱軍を率いていたのは元テュルク(東突厥)王族の阿史那 承慶(あしな しょうけい)でした。

モユンチョルとしてはテュルク残党との戦いは因縁の相手でした。安禄山自身もソグドとテュルクの混血。安禄山には史思明など出身地が安禄山と近い人々が多く味方していました。

モユンチョルはウイグル軍を率いて郭子儀(かくしぎ)率いる唐軍と合流。阿史那承慶軍を撃破しました。

757年2月。モユンチョルは唐に15人の使者を派遣しました。

長安奪還作戦

長安を占領していた安禄山が暗殺され。息子の安慶緒があとを継ぎました。安禄山の盟友・史思明はこれに怒って反乱軍から離脱します。

粛宗は長安の奪還を目指します。

757年9月。モユンチョルは葉護太子(皇太子の意味、名は不明)と将軍ディデ(帝徳)を4000の騎馬兵とともに派遣。

葉護太子らは討伐軍元帥の広平王・李俶(後の代宗)と合流。葉護太子は広平王・李俶と義兄弟の契をかわしました。

粛宗は「長安を奪回したらウイグルが長安地方を略奪してもいい」と約束しました。当時の戦争では略奪は当たり前でした。

葉護太子らウイグル軍は広平王率いる唐軍とともに長安にいる反乱軍の鎮圧を行いました。

757年秋。ウイグル・唐連合軍は長安を奪回しました。葉護太子は約束通り、長安の略奪を始めようとしていました。

しかし李俶は葉護太子に略奪をやめるように懇願。代わりに洛陽を略奪してもいいことになりました。

ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪還しました。約束通りウイグル軍は洛陽で略奪しました。すると洛陽の長老達が1万枚の絹を差し出したため略奪をやめました。

長安と洛陽が奪還されたのを喜んだ粛宗は毎年、絹2万匹を葉護に送ると約束しました。

758年5月。葛勒可汗は唐に50人の使者を派遣。唐に皇女との婚姻の実行を要求しました。

粛宗はまだ幼い寧国公主を葛勒可汗に嫁がせました。葛勒可汗は寧国公主をカトゥン(可敦=皇后)にしました。

さらにモユンチョルに「英武威遠毘伽可汗=遠くの土地に勇敢と武勇が轟く皇帝」の称号を与えました。

8月。モユンチョルは王子のクチョル・テギン(骨啜特勤)や宰相のディデ(帝徳)に3000の騎兵を与えて反乱軍鎮圧に派遣しました。粛宗は喜んで宴をひらきました。

9月。唐に婚礼の礼を伝えるため使者を派遣。キルギス(堅昆)との戦いに勝ったことを報告しました。粛宗は紫宸殿で宴をひらき使者に引き出物を与えてねぎらいました。

晩年のモユンチョル

安禄山は死亡しましたが、仲間だった史思明が反乱を続けていました。

759年。息子の骨啜特勤を唐に派遣。骨啜特勤は唐の将軍・郭子儀とともに史思明軍と戦いますが戦果はあげられませんでした。

759年4月。サヤン山脈でのキルギスへの遠征から戻った後。病気で死亡しました。

理由はわかりませんが、このときまでに長男の葉護太子は殺害されていました。後継者争いがあったのかもしれません。
そのため、次男の移地健(いじけん)が3代カガン(牟羽可汗)になりました。

移地健の妻(僕固懐恩の娘)が新しいカトゥン(可敦=皇后)になりました。子供のなかった寧国公主は殉死を禁止され唐に戻されました。

モユンチョルはタリアット碑文とよばれる石碑を建てました。在位中の753~760年の間に建てられました。古代テュルク語でウイグルがテュルクと戦い独立した歴史が書かれています。

唐を揺るがした安史の乱のはまだ治まっていません。牟羽可汗の時代に乱は鎮圧されます。その結果、唐は西域の領地を手放し世界的な大帝国としての勢いを失ってしまいます。ウイグルは唐が撤退した西域に進出。東ユーラシア大陸ははチベットを含めた三大強国の時代に入りました。

モユンチョルの時代は唐の混乱をうまく利用してウイグルの勢力を広げた君主でした。モユンチョルが唐を助けなければ戦乱が続き東アジアや日本の歴史が変わっていた可能性もあります。意外と重要な人物なのです。

 

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