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李継遷(り・けいせん)北宋に独立戦争を挑んだタングートの王

タングート 9 その他の国や民族

李 継遷(り けいせん)は10世紀のタングートの首領。

タングートはチベット系の遊牧民です。

タングートは唐や宋に従いながら独立した勢力をもっていました。しかし李継捧の時代に北宋に服従。タングートの王族は開封で暮らすように強制されたことに反発して李 継遷は挙兵しました。

その後はタングートの人々を集めて宋に独立戦争を挑みます。強大な宋を相手にするにはタングート単独では苦しいので契丹に援助を求め「夏国王」の称号をもらい契丹の公主と結婚しました。

その後も、北宋とは戦ったり和平したりを繰り返しながら領土を広げます。

後に孫の李元昊が大夏皇帝(西夏)を名乗るようになりますが。大夏(西夏)の基礎を作ったのは李継遷。

李継遷が大夏(西夏)の事実上の建国者です。

史実の李 継遷はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李 継遷の史実

いつの時代の人?

生年月日:963年
没年月日:1004年1月26日

本姓 :拓跋(たくばつ)氏
姓 :李(り)氏
名称:継遷(けいせん)

国:夏(タングート)
地位:夏国王
称号:神武皇帝(景宗 李元昊時代に追封)
廟号:武宗(太宗時代に追封)、太祖(景宗 李元昊 時代に追封)

父:李光儼
母:
正妻:罔氏、野利氏(順成懿孝皇后:追封)、義成公主 耶律汀(やりつ てい)

子供:李徳明(大夏 太宗)、李徳昭

彼はタングートの王。北宋太宗、真宗、契丹(遼)聖宗と同時代の人物です。

日本では平安時代になります。

 

タングートの李一族とは

チベット・ビルマ系遊牧民のタングート(党項)の人。祖先は北魏の皇族・拓跋氏の子孫を自称して 拓跋(たくばつ)氏を名乗っていました。北魏の拓跋氏は鮮卑なので、実際には拓跋とは血の繋がりはありません。

北魏を建国した拓跋は遊牧民社会の名門と考えられていたので、それにあやかって拓跋を名乗っていたのです。

タングートの首領・拓跋思恭(たくばつ・しきょう)が唐の21代皇帝・僖宗から国姓の姓と「夏国公」の爵位を与えられ「定難軍節度使」になりました。それ依頼、子孫は李姓を名乗っています。

唐は様々な人達に李姓を与えたのでこの時期に李姓の人が増えました。

なので。李継遷は李姓を名乗っていますが漢人ではありませんし唐の皇族の末裔でもありません。

李一族のタングートは唐末期から五代十国時代にかけて夏州周辺を支配する独立した小王国みたいになっていました。

 

李継遷の死後、孫の李元昊によってタングートの国は「大夏(西夏)」を名乗ります。李継遷は大夏の基礎を作りました。

契丹

おいたち

李 継遷(り・けいせん)は963年。銀州(陝西省橫山県)で生まれました。

父は銀州防禦使の李光儼。

生まれた時から歯があったと言われます。幼い頃から頭がよく勇敢でした。叔父で定難軍節度使の李光睿は李継遷の才能を高く評価。李継遷が12歳のときに管内都知蕃落使に任命しました。

李継捧が宋に服属

李光睿の死後、李継筠が継ぎましたが。兄・李継筠の死後、李継捧があとを継ぎました。一族の李克文が李継捧の相続に反対。

982年。相続争いに嫌気がした李継捧は北宋の宋太宗 趙炅に領地を献上。宋太宗はタングートの王族は開封で暮らすように命令しました。

北宋から独立

李継遷はタングートが所有していた夏州・綏州・銀州・宥州・静州の五州の所有権が北宋に渡ったことを知りました。

北宋の使者がやって来ると、李継遷は弟の李継沖や仲間とともに喪服を着て母の葬儀の最中だと嘘をついて埋葬に出かけるふりをしました。そのまま棺や荷車に武器を隠してオルドスに向かいそこでタングート人に呼びかけて北宋への抵抗活動をはじめました。

しかし豪族たちは力の弱い李継遷たちに協力しようとしません。そこで李継遷は部族長たちを説得。祖先の拓跋思忠の肖像画を皆に見えるように飾り、言葉巧みにタングートの歴史を語り北宋への抵抗を呼びかけました。すると多くのタングート人が集まるようになりました。

982年12月。李継遷は(夏州陝西省靖辺県)を攻撃。宋からの独立運動を始めました。

しかし李継遷は宋との全面戦争をしても勝てるとは思っていません。北宋に貢物を送り、開封で暮らすのではなく夏州を守らせて欲しいと訴えました。

宋太宗は李継捧が李継遷と親しいと知り李継捧に李継遷に抵抗を止めて従うように説得させました。でも李継遷は夏州を出るつもりはありません。

983年。李継遷は李継捧と協力して綏州・銀州を占拠しました。

挫折

ところが宋軍の反撃にあって撤退。兵を集めながら各地を転戦しましたが、その後も各地での戦いで敗北します。

李継遷はタングートだけでは兵力の大きな北宋軍に対抗するのは無理と考え、契丹(遼)に助けを求めることにしました。

 

宋に対抗するため契丹と同盟

986年。北宋に対抗するため李継遷は張浦を契丹(遼)に派遣。契丹に臣従して援助を求めました。

遼聖宗 耶律文殊奴(やりつ もんじゅど)は李継遷を定難軍節度使、夏綏銀宥静五州観察使、特進検校太師・都督夏州諸軍事に任命。弟の李継沖を副使に任命しました。

さらに遼との結びつきを深めるため、李継遷は自ら契丹を訪問。契丹皇室との婚姻を求めました。

988年。李継遷が契丹と同盟したのを知った宋太宗は李継捧を夏州に戻らせて李継遷に対抗させました。

989年。李継捧は李継遷が北宋に帰順したと報告しました。宋太宗は継遷に銀州刺史、充洛苑使に任命しました。しかし李継遷は北宋からの任命を拒否。

李継遷は契丹に行き李継捧には恨みがあると報告、遼聖宗に協力を求めました。遼聖宗は李継遷を一度は疑いましたが、再び李継遷がやってきたので同盟を認め。遼聖宗は親族の娘・義成公主 耶律汀(やりつ てい)と李継遷の結婚を許可しました。李継遷に契丹から馬3000頭が与えられました。

990年。李継捧は李継遷は安慶澤で戦いました。李継遷に流矢が当たって敗退。その後、再び夏州を攻めて李継捧を破りました。

990年12月28日。遼聖宗は李継遷を「夏国王」に冊封しました。

北宋との戦い

その後。北宋は軍を派遣。攻められた李継遷は北宋に降伏しました。北宋から「銀州観察使」の役職と「趙保吉」の名前を与えられました。李継遷は表面上は北宋からの任命を受けましたが、裏では契丹軍と協力して北宋の西北の国境を攻めました。

992年。李継遷はそれまで北宋に従っていた李継捧を誘って契丹に朝貢させました。

しかしその後、李継遷と李継捧は対立。

993年。李継遷は綏、銀二州を領有していましたが、まだ夏州は領有していませんでした。そこで北宋に領土を返すように要求。太宗は拒否しました。

そこで慶州、夏州に攻め込みましたが撃退されました。

重臣の張浦を和平交渉のために北宋に派遣しましたが、抑留されてしまいます。

996年。北宋の輸送部隊を襲撃して40万石の兵糧を奪いました。

その後。李継遷はトゥプト(吐蕃)の折平部を襲撃。首領の握散は北宋と共同でタングートと戦うように要請しました。トゥプトもタングートもチベット系の民族ですが仲はよくありません。

宋太宗は将軍の李継隆を派遣。李継遷は李継隆の軍と戦い敗退。北宋と和睦しました。

李継遷は北宋から夏州刺史に任命されました。でもその後も北宋との境では略奪を行なっていました。

宋真宗の時代に力を蓄える

997年。北宋で宋真宗 趙恒(ちょう・こう)が即位。

宋真宗 趙恒は李継遷には消極的な対応をしていたので、その間に李継遷は力をつけました。

1001年。トゥプト(吐蕃)六谷部長の潘羅支が北宋から冊封を受けました。

1002年。李継遷は霊州を攻撃。知州の裴済を殺害。李継遷は遼から「西平王」に冊封され、霊州を西平府と改称、首都にしました。西平府は西域との交易の要衝。都市の防衛を固め都市開発を行いました。

潘羅支との戦い

領土の増えた李継遷は「遊牧の世界では一番だ」と油断するようになっていました。

あるとき北宋に従っていた吐蕃族の首領・潘羅支との戦いになりました。ところが潘羅支は偽の降伏をしてきました。側近の張浦は慎重になるように忠告。しかし自分は強いと思っていた李継遷は張浦の忠告を聞かず油断、投降を受け入れることにしました。すると潘羅支は数万のトゥプト兵・宋兵で襲撃。急な攻撃を受けた李継遷の軍は大敗。李継遷自身も重症を負って西平府に撤退しました。

 

最期

1004年。容態が悪化した李継遷は死を覚悟。長男の李徳明を後継者にすると北宋には従うように指示、張浦には李徳明を支えるように言い残すと息を引き取りました。

享年42歳。

その後。タングートを引き継いだ李徳明は潘羅支を攻撃し報復しました。

 

ドラマ

燕雲台 2020年、中国 演:馮武生
大宋宮詞 2021年、中国 宋の敵として名前だけは出てきます。

 

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