大祚栄 は 渤海を作った高句麗の末裔

2019年7月21日

大祚栄(だい そえい)は渤海を建国した人物。渤海は日本人に馴染みのない国に思えるかもしれません。

でも朝鮮半島や大陸にあった国では日本に最も友好関係の深い国でした。

渤海があったのは現在の中国・ロシア・北朝鮮のあたりです。

現在でも渤海はどこの国の歴史にいれるべきか、中国・ロシア・北朝鮮・韓国のあいだで問題になっています。

韓国では韓国KBSが「大祚栄(テジョヨン)」というドラマが作りました。これは「渤海は韓国のものである」という主張が込められています。

現在でも論争になってる渤海を作った人物。大祚栄とはどんな人物だったのか紹介します。

大祚栄 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:719年6月
在位:697~719年

名前:大祚栄(だいそえい、テ・ジョヨン)
称号:高王、渤海郡王
父:乞乞仲象(大仲象)
母:不明
妻:不明

子供:大武芸(武王)、大門芸、

渤海の初代国王です。
日本では飛鳥時代~奈良時代初期。藤原不比等や長屋王と同じ時代の人です。

おいたち

大祚栄靺鞨人?

大祚栄の記録は唐のことを記した歴史書・旧唐書、新唐書に書かれています。

旧唐書では「渤海靺鞨は高麗(高句麗)の別種である。高麗(高句麗)が滅んだので一族を率いて江州に移り住んだ」と書かれています。

新唐書よると「高麗(高句麗)にいた粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)の者。姓は大氏」と書かれてます。

注:古代には高句麗のことを「高麗」と書いていました。当時の日本語読みは「こま」。高句麗と名乗ったのは長寿王のあたりから。現在では長寿王以前の時期も王建が建国した高麗と区別するために高句麗と書きます。

靺鞨(まっかつ)とは隋・唐の時代に中国東北部やロシア沿海州にいた部族です。高句麗と同様にツングース系の民族とされています。靺鞨はいくつかの部族に分かれていました。そのひとつ粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)が大祚栄の部族です。別の部族・黒水靺鞨族は後に女真族・満州族と呼ばれるようになります。

高句麗滅亡後の靺鞨人

668年。高句麗が滅亡。高句麗の人々は散り散りになりました。高句麗の強さを恐れた唐は高句麗の民を唐の各地に強制的に移住させ、バラバラにしました。一箇所にまとまって住んでいたら反乱される可能性があるからです。

しかし唐の支配は過酷だったので各地で反乱が起きてしまいます。

690年ごろから唐の支配下にいた契丹族や旧高句麗人が反乱を起こしました。

696年。江州(中国遼寧省朝陽市)にいた契丹族の李尽忠(リ・ジンチュン、りじんちゅう)が反乱をおこすと、粟末靺鞨人の指導者・乞乞仲象(きつきつちゅうしょう)も元高句麗の人々ともに反乱を起こしました。乞乞仲象は現在の韓国では大仲象(テジュンサン)とも書きますが、生前は大仲象と名乗ったことはありません。大姓を使いだしたのは息子の祚栄の時代からです。

乞乞仲象と息子の大祚栄は高句麗の人々ともに江州を出て故郷の牡丹江上流に向かいました。乞乞仲象と大祚栄たちは東牟山を本拠地に自分たちの国を作ろうとしたのです。

しかし唐が許すはずがありません。正確にはこの時代は武則天が皇帝になっていた武周の時代。でも歴史上は武周も唐に含めることもあります。強大だった唐も武周のころになると国の中でいろいろモメていたので国力が弱くなっていました。各地で反乱が起きます。

武則天は契丹から投降した武将・李楷固(リ・ヘゴ、りかいこ)に討伐を命じます。李楷固軍との戦いの最中、乞乞仲象が病死。ともに戦っていた乞四比羽も戦死しました。

大祚栄の抵抗活動

大祚栄は残った人々をまとめて抵抗を続けました。

698年。大祚栄は東牟山(中国吉林省)に「震国」を作りました。唐(武周)と戦いながら大祚栄はさらに勢力を拡大しました。

705年。武則天が退位し中宗が即位。すると唐は使者を送りました。唐は下手に攻撃して損害をうけるよりは懐柔してしまおうと考えたのです。

712年。唐の玄宗皇帝は即位すると大祚栄に入朝を要請。

とりあえず形だけでも従属していれば攻撃されませんから、大祚栄としても悪い話ではありません。

713年。大祚栄は唐から「渤海郡王」の称号を与えられ国名を「渤海」にしました。正式に唐の冊封体制に入りました。

渤海は、突厥(とっけつ)や契丹(きったん)など周辺の国と友好関係を結んでいました。

719年。死去。息子の大武芸があとを継ぎました。

大祚栄没後の渤海

渤海はその後、黒水靺鞨と対立。新羅も敵にまわします。

そこで727年に新羅と因縁のあった日本に使者を送り日本とも同盟を結びました。最初の渤海使節は蝦夷(北海道)に上陸してアイヌ人によって殺害されてしまいました。しかし生き残った人々が出羽国(山形県、秋田県)にたどり着き、後に聖武天皇に謁見しています。使節の3分の2が殺害されてしまいましたが渤海の対日感情が悪化することはなくその後も使節を送ってきました。

759年。恵美押勝(藤原仲麻呂)が計画した新羅征伐は渤海の求めに応じたものだといわれます。このときの派兵は孝謙上皇の反乱で実現しませんでした。

渤海が周辺国と関係を修復すると軍事同盟は薄れ、貿易と文化的な交流が続きます。渤海はあまりにも使者を送る回数が多いので日本は「12年に一度でいい」と制限しました。使者を送ってきた国に対して数倍の返礼品を送る必要があったので経済的な負担になったのです。

しかしその後も渤海は使節を派遣してきました。926年に渤海が滅亡するまで200年近く日本と友好関係が続きました。

渤海は朝鮮半島の国では百済と同じくらい友好関係の深い国でした。

テレビドラマ

大祚榮 KBS 2006年 演:チェ・スジョン


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