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遼(契丹)の歴代皇帝一覧

契丹 9 その他の国や民族

遼(契丹)は916年から1125年まで続いた王朝です。

遊牧民族が初めて中原を支配したということで「初の征服王朝」と呼ばれることもありますが。契丹は中国の枠にとらわれず、広大なモンゴル平原、満洲地方、中原を支配したユーラシアの帝国でした。

後の金、元、清といった遊牧民・狩猟民族王朝が中原を支配するきっかけになりました。ユーラシア大陸の東部から中部にかけて大きな影響を残した国です。

契丹の歴代皇帝を紹介します。

遼(契丹)の歴代皇帝を簡単に紹介します。

契丹の皇帝は契丹名と漢名の両方を持っていることが多いです。契丹名が本来の名前なので契丹名を先に書き、あわせて漢名も紹介しておきます。

 

 

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遼の名前

国の名前は何度か変わっています。

916年以前。遊牧民のキタイ部族連合。

大契丹国(イェケ・キタイ・オルン)
916~947年。

大遼(だいりょう)
947~983年。

大契丹国
983~1066年。

大遼
1066~1125年

歴史として紹介する場合、時期によって名前を変えるのは面倒なので。
中国史で扱う場合は「遼」。
遊牧民・モンゴル史では「キタイ、契丹」と書かれることが多いです。

 

遼(契丹)の歴代皇帝

初代 耶律 阿保機

契丹名:耶律 阿保機(やりつ・あぼき)
漢名:劉億(りゅう・おく)
廟号:太祖
生没年:872 – 926年
在位:907 – 926年

父:耶律 撒剌的(徳祖:追尊)
母:遙輦 巌母斤(宣簡蕭皇后:追尊)

耶律 阿保機は907年にキタイ部族連合のカガン(皇帝)に即位。テングリカガン(天皇帝)を名乗ります。

それまでキタイのカガン(皇帝)は3年任期の交代制でした。カガンの地位を世襲に変え、中華式の帝国を目指しました。

916年にもキタイカガン(契丹可汗)に即位。
国名を「大契丹国(イェケ・キタイ・オルン)にしました。
このときに中華式の「皇帝」を名乗ったと考えられます。

突厥・吐谷渾・小蕃・阻卜・タングート・ウイグル・沙陀諸部、女真、中原の一部を支配下におき。渤海を滅ぼして東丹国をつくり。契丹帝国の基礎を作りました。

 

そのころの日本

平安時代
醍醐天皇
903年に太宰府で死亡した菅原道真の怨霊が騒ぎになったのがこのころ。947年に北野天満宮で神として祀られることに。

淳欽述律皇后(述律太后)

契丹名:述律 平(じゅつりつ・へい)
称号:淳欽皇后
別名: 月里朵(がつりだ)
生没年:872 – 926年
在位:907 – 926年

父:耶律 撒剌的(徳祖:追尊)
母:遙輦 巌母斤(宣簡蕭皇后:追尊)

太祖 耶律 阿保機の正妻。 阿保機の死後、称制(皇帝に即位せずに権力を行使する立場につくこと)して、長男・東丹王(人皇王)耶律突欲を支持する重臣を粛清したあと皇族・部族長会議を主催。次男・耶律堯骨を即位させました。

耶律堯骨の死後。勝手に即位した耶律兀欲を討ち、末息子・耶律李胡を皇帝にするために挙兵。しかし劣勢のため耶律屋質の仲介で和睦。

・述律皇后の詳しい説明はこちら。

 

2代 太宗 耶律堯骨

契丹名:耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)
漢名:劉徳光(りゅう・とくこう)
廟号:太宗
生没年:902 – 947年
在位: 926年11月 – 947年4月

父:耶律 阿保機(太祖)
母:述律 平(淳欽皇后)

兄・東丹王(人皇王)耶律突欲が後唐に逃亡。
沙陀軍閥の石敬瑭と取引して軍事援助の代わりに燕雲十六州を入手。石敬瑭は堯骨の援助をうけて後唐を滅ぼし後普を建国。石敬瑭の死後、契丹に対立する後普を滅ぼし、開封を占領。国名を中華風の「大遼」に変更。しかし開封の支配に失敗して撤退。上京に戻る途中で病死。

 

3代 世宗 耶律兀欲

契丹名:耶律兀欲(やりつ・こつよく)
漢名:劉阮(りゅう・げん)
廟号:世宗
生没年:919 – 951年
在位:947年5月- 951年10月

父:耶律突欲(東丹王)
母:柔貞蕭皇后(追尊)

太宗の遠征に参加。太宗の死後、遠征軍の将兵たちに推されて皇帝に即位。
述律太后・耶律李胡の軍と睨み合いの後、述律太后が和睦。
正式に皇帝に即位しました。組織改革を行い中央集権型の組織に変更。
晩年は酒色に溺れ、祥古山で皇族の察割に刺殺されました。

 

4代 穆宗 耶律述律

契丹名:耶律述律(やりつ・じゅつりつ)
漢名:劉璟(りゅう・けい)、劉明(りゅう・めい)
廟号:穆宗(ぼくそう)
生没年:931 – 969年
在位:951年10月 – 969年3月

父:耶律堯骨(太宗)
母:懐節蕭皇后

世宗 耶律兀欲の殺害後、耶律屋質たちに推されて即位。
即位直後から政治には関心がなく酒と狩りに夢中になり些細なことで人を処罰。
酔ったところを従者に殺害されました。

5代 景宗 耶律明扆

契丹名:耶律明扆(やりつ・めいい)
漢名:劉賢(りゅう・けん)
廟号:景宗(けいそう)
生没年:931 – 969年
在位:969年3月 – 982年10月

父:耶律兀欲(世宗)
母:靖安蕭皇后

穆宗の死後。重臣たちに推されて即位。

6代 聖宗 耶律文殊奴

契丹名:耶律文殊奴(やりつ・もんじゅど)
漢名:劉隆緒(りゅう・りゅうちょ)
廟号:聖宗(せいそう)
生没年:982 – 1031年
在位:982年10月14日 – 1031年6月

父:耶律明扆(景宗)
母:睿智蕭皇后

12歳で即位。しばらくは承天皇太后(蕭太后)の摂政が行われました。即位後。国名を「大遼」から「大契丹国」に変えました。

北宋を攻めて「澶淵の盟」を結び、毎年多額の貢物(歳弊)を受け取るようにしました。
積極的に遠征を行い女真、ウイグル、高麗を服属させました。北宋が作った契丹包囲網を撃破して契丹を脅かす外敵を排除。治世後半には国内の制度を改革して中央集権化を進め。安定した国家を築きました。聖宗の時代に契丹は全盛期をむかえます。

 

7代 興宗 耶律只骨

契丹名:耶律只骨(やりつ・しこつ)
漢名:劉宗真(りゅう・そうしん)
廟号:興宗(こうそう)
生没年:1016 – 1055年
在位:1031年6月 – 1055年8月

父:耶律文殊奴(聖宗)
母:欽哀蕭皇后

15歳で即位したため、生母の欽哀太后(欽哀蕭皇后)が摂政になりました。成人後、欽哀太后を幽閉して親政を開始。

西夏と争っている北宋に圧力を加え歳弊の増額を実現。西夏も攻めて服従させ朝貢させました。文化的にも栄え、聖宗の時代とともに契丹の全盛期をむかえました。

 

8代 道宗 耶律査剌

契丹名:耶律査剌(やりつ・ささつ)
漢名:劉洪基(りゅう・こうき)
廟号:道宗(どうそう)
生没年:1032 – 1101年
在位:1055年8月 – 1101年2月

父:耶律只骨(興宗)
母:仁懿蕭皇后

治世の前半は農業や学校の建設に力を入れましたが。やがて堕落。狩猟と宗教に凝るようになり。寺院の建設で浪費。皇族や臣下を粛清し。政治は乱れました。生活苦から土地を手放す民が増え。圧政に苦しむ女真族が反乱を起こしました。

1066年に国名を再び「大遼」に戻します。

 

9代 天祚帝 耶律阿果

契丹名:耶律阿果(やりつ・あか)
漢名:劉劉延禧(りゅう・えんぎ)
廟号:なし
称号:天祚皇帝
生没年:1075 – 1128年
在位:1101年2月12日 – 1125年3月

父:耶律耶魯斡(順宗:追尊)
母:貞順蕭皇后(追尊)

1115年。女真の太祖 阿骨打(アクダ)が金(アルチュフ)国を建国。天祚帝は討伐軍を贈りましたが大敗。金国の太祖 阿骨打と戦って敗北。長春に逃げました。その後、金と北宋の連合軍に破れ、金の捕虜になりました。

契丹は一度は滅亡します。

 

北遼

天祚帝が金太祖 阿骨打に破れた後。皇族の耶律大石と大臣たちが皇族を担いで建国した国。天祚帝はまだ生きているので遼が分裂した状態になります。

 

宣宗 耶律涅里

契丹名:耶律涅里(やりつ・ねり)
漢名:劉淳(りゅう・じゅん)
廟号:宣宗
称号:孝章皇帝
生没年:1062 – 1122年
在位:1122年3月 – 6月24日

父:耶律和魯斡
母: 徳妃 蕭普賢女

天祚帝が金太祖 阿骨打に破れた後。皇族の耶律大石と宰相の李処温に担がれ、南京(今の北京)で即位。しかし年内に病死。

耶律定

契丹名:耶律定(やりつ・てい)
廟号:宣宗
称号:孝章皇帝
生没年:? – ?
在位:1122 – 1123年

父:天祚帝 耶律延禧

天祚帝の死後、即位。
金に捕らえられました。

耶律 雅里

契丹名:耶律 雅里(やりつ・がり)
廟号:宣宗
称号:孝章皇帝
生没年:1093 – 1123年
在位:1123年5月 – 10月

父:天祚帝 耶律延禧
母:蕭元妃

耶律定の死後、耶律大石たちに担がれて即位。
年内に死亡。

耶律 朮烈

契丹名:耶律 朮烈(やりつ・じゅつれつ)
廟号:宣宗
称号:孝章皇帝
生没年:不明 – 1123年
在位:1123年11月

父: 耶律阿璉

耶律 雅里の死後、即位。
内紛がおきて家臣たちに殺害されました。
北遼は滅亡。

西遼(カラ・キタイ)

遼滅亡後に皇族の耶律大石が西に逃れて建国した国。
中国の文献では「西遼」、イスラム系の文献では「カラキタイ」とよばれます。

初代 徳宗 耶律大石

契丹名:耶律大石(やりつ・たいせき)
廟号:徳宗
称号: 文烈皇帝、天祐皇帝
生没年:1087 – 1143年
在位:1132年 – 1143年

耶律大石は太祖 耶律阿保機の四男・耶律 牙里果の子孫。

天祚帝が金に破れ逃げると、別の皇族を担いで抵抗を続けていましたが挫折。金の総攻撃で遼が滅亡すると契丹人を率いて西に逃れ。自らカガンになって遼を再興しました。中央アジアでウイグル人やテュルク系のカラハン朝を支配下におき。中央アジアを支配する大国に成長。故郷を奪回するため軍を率いて金の討伐に向かう途中で病死。軍は引き返しました。

2代 仁宗 耶律 夷列

契丹名:耶律 夷列(やりつ・いれつ)
廟号:仁宗
称号: 正徳皇帝
生没年:不明 – 1163年
在位:1150年 – 1163年

父:徳宗 耶律大石
母:感天蕭太后

西カラハン国のイブラヒム3世と戦い。

3代 耶律直魯古

契丹名:耶律 直魯古(やりつ・ちょくろこ)
生没年:不明 – 1213年
在位:1177年 – 1211年

父:徳宗 耶律大石
母:感天蕭太后

即位直後は幼かったので仁宗 耶律 夷列の妹・普速完(プスワン)が称制を行いました。一族内の争いが続き。親政をはじめてからも人望がなく。ホラズム・シャー朝、西カラハン朝、天山ウイグル王国が独立。カラキタイは弱体化。

チンギス・ハンに追われたナイマン族の王子クチュルクを匿ったものの。クチュルクに反乱を起こされ幽閉されてしまいます。

4代 クチュルク

名前:クチュルク(屈出律、曲出律)
生没年:不明 – 1218年
在位:1211年 – 1218年

父:塔陽罕(タヤン・カン)
母:古児別速

モンゴル高原で暮らすテュルク系の遊牧部族ナイマン族の王子。チンギス・ハンの攻撃で父を失い、カラ・キタイに亡命。カラキタイのハーン直魯古を幽閉してハーンの座を奪いました。モンゴルに攻められて殺害され。カラキタイは滅亡しました。

 

 

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