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耶律休哥・泣く子も黙る、宋兵を恐れさせた勇猛な将軍

契丹 9 その他の国や民族

耶律休哥(やりつ・きゅうか)は10世紀の契丹(遼)の武将。

穆宗、景宗、聖宗に仕えました。

耶律休哥は優れた戦略家で多くの戦いで勝利をおさめました。

景宗や聖宗時代を支えた人物のひとりです。

戦場では勇猛で宋兵には非常に恐れられましたが、領民を大切にする人物でした。

史実の耶律休哥はどんな人物だったのか紹介します。

 

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耶律休哥の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:998年

姓 :耶律(やりつ)氏
名称:休哥(きゅうか)
字:遜寧

国:梁(契丹)
称号:于越

父:耶律綰思
母:不明
夫:不明

子供:不明

彼は穆宗、景宗、聖宗時代に活躍しました。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。

父は南院夷離堇の耶律綰思。
太祖・耶律阿保機の子孫ではありません。阿保機の親族の子孫です。

穆宗の時代。

応暦15年(965年)。烏古・室韋が梁に反乱を起こすと、北府宰相蕭幹の討伐軍に加わって戦いました。

応暦18年(968年)。惕隱に昇進しました。

景宗の時代

高梁河の戦い・宋太宗を撃破

乾亨元年(979年)。宋が燕雲十六州に侵攻。北院大王耶律奚低や統軍使 蕭討古が宋軍に敗北。宋軍が南京(現在の北京)を包囲しました。耶律休哥は 景宗 耶律明扆から軍を率いて救援に向かうよう命令を受けました。

耶律休哥は高梁河で宋太宗 趙光義の率いる宋軍と遭遇。

耶律休哥は耶律斜軫とともに左右から宋軍に攻撃をかけ宋軍を撃破。梁軍は30里あまり追いかけ、1万以上の敵兵を討ち取りました。耶律休哥も3ヶ所に傷を受けました。宋太宗は南に逃亡。耶律休哥は怪我をして馬に乗れないので軽戦車に乗って宋太宗を追いかけましたが、追いつくことはできませんでした。

満城の戦い・働きが認められ北院大王に任命

乾亨元年(979年)冬。景宗は報復攻撃を決定。韓匡嗣と耶律沙に宋を攻撃させました。休哥は韓匡嗣らの元で戦い満城(今河北省保定市)を攻めました。宋軍が降伏を願い出てきました。

でも休哥は「彼らはまだやる気に満ちていて降伏するとは思えません」と韓匡嗣に進言しました。でも韓匡嗣は休哥の意見を無視して降伏を受け入れました。

すると宋軍は降伏すると見せかけて奇襲攻撃してきました。韓匡嗣はどうしていいかわからず逃走。兵たちは大混乱しています。

休哥は放置された兵器を回収、混乱する兵たちをまとめると反撃しました。宋軍は梁軍の反撃にあって撤退しました。

このことを知った景宗は休哥に南方を守るように指示。「北院大王」に任命しました。

 

瓦橋関の戦い

乾亨二年(980年)。景宗は自ら宋に遠征。梁軍は瓦橋関(今河北省雄縣西南)を包囲しました。宋軍は瓦橋関を救援するために軍を派遣しました。瓦橋関を守る張師は遼軍に攻撃。景宗と休哥は戦って張師を戦死させました。残った宋軍は城内に逃げ込みました。宋の援軍は南易水(今の洛河)の対岸で待機しました。

遼軍は南易水の対岸に整列。戦いの前。景宗は休哥の馬鎧が黄色いのを気にして変えさせました。敵に見つかりやすいと思ったからです。その代わりに白馬を贈りました。

遼軍は南易水を渡って宋軍に攻撃、莫州(河北省任丘北鄚州鎮)まで追い詰めました。休哥は宋軍の将軍数人を生け捕りにしました。景宗は休哥の働きに喜び、「于越」の位、馬と金盃を与え、「君の勇猛さは評判以上だ。皆が君のようであれば、戦いに勝てないと恐れることはない」と言って褒め称えました。

聖宗の時代

統和元年(983年)。景宗 耶律明扆が死去。
息子の聖宗 耶律文殊奴が即位。太后蕭綽が摂政になりました。

蕭太后は南京留守(現在の北京の防衛担当)と南の守りを休哥に任せました。

宋の雍熙北伐を返り討ちにする

統和四年(986年)。宋太宗は遼で幼い皇帝が即位した今が攻撃のチャンスを考え、契丹に大規模な軍を派遣しました。この作戦を宋では「雍熙北伐」と言います。

宋軍の攻撃で雲州、雄州、易州、涿州が占領されました。北院、南院の軍はまだ到着せず、休哥の兵だけでは宋軍に太刀打ちできません。昼も夜もゲリラ戦をしかけて宋軍の兵を疲れさせました。森や草原で待ち伏せを行なって補給路を遮断しました。

宋軍の曹彬の部隊は兵糧不足で撤退。その後、再び攻めてきました。休哥は宋軍が食事中に奇襲攻撃をかけて宋軍を攻撃。その後、蕭太后が援軍を率いて到着すると宋軍は逃げました。

蕭太后は休哥に追加の兵を与え宋軍を追撃させました。休哥は宋軍に追いつくと食糧輸送車を守ろうとしましたが、休哥たちが包囲。夜。曹彬や米信たちは数頭の馬を連れて逃げました。それを見た宋兵たちも逃げました。

休哥は追撃を続け易州東に到着。そこには数万の宋兵がいて食事中でした。宋兵は休哥の攻撃にあわてて逃げ出して川に落ちて溺死するものが続出しました。

結局、宋の攻撃は失敗しました。

宋軍を撃退した休哥は都に凱旋。「宋国王」の爵位が与えられましたた。

宋軍の弱さを知った休哥は黄河までを占領する案を提出しましたが、不採用になりました。

君子館の戦

統和4年(986年)冬。 聖宗と蕭太后は南征。耶律休哥は先鋒を任されました。望都で宋軍を破った後。君子館まで進みました。

宋の将軍・劉廷讓と李敬源は共に契丹軍を迎え撃ちました。

休哥の軍に蕭太后の軍が合流。戦闘になりました。休哥と蕭太后は劉廷讓、李敬源の軍と戦い、李敬源が戦死。劉廷讓は瀛州に逃げました。

徐河の戦

統和7年(989年)。契丹軍は北宋の維洛軍が食糧不足になっていると知り。食糧輸送を妨害しようと派兵。それを知った宋太宗は食糧輸送隊を守るため軍を派遣しました。

耶律休哥は食糧輸送隊を奪取しようと進軍していました。

宋の尹継倫が偵察中に耶律休哥の部隊を発見。耶律休哥は尹継倫に気づかなかったのか無視して食糧輸送隊の攻撃に向かいました。尹継倫の部隊は耶律休哥の軍が休憩中に襲撃。契丹軍は混乱になり数万の将兵が討ち死に。耶律休哥も負傷しました。その被害の多さに蕭太后は激怒しました。

耶律休哥の生涯で唯一の大敗です。

その後。宋軍は劉廷堅を派兵。契丹を攻めました。このとき耶律休哥は迎え撃って数万の兵を討ち取り。数え切れないほどの食糧を捕獲、朝廷に献上しました。蕭太后は休哥の功績を称えました。

 

晩年

その後、耶律休哥は戦争で疲弊した民には税を減らし労役を免除しました。孤児や未亡人になった人を助けました。農業を奨励。国境の守りも油断することなく行いました。

配下には勝手に国境を超えて宋を攻撃しないように命令。牛や馬が北に迷い込んでも南に返すように命令しました。こうして暫くの間、国境地帯は安定しました。

耶律休哥は宋兵には非常に恐れられました。宋では子供が泣いたときに「于越が来るよ」と言うと子供が泣き止んだといいます(于越は休哥の称号)。

しかし耶律休哥は無実の民を殺すようなことはなく。人々は耶律休哥の統治を称賛したといいます。

統和16年(998年)。死去。聖宗は南京(北京)に耶律休哥の祠を建てさせました。

 

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年。演:阮聖文

 

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