PR

蕭思温|契丹 蕭太后の父親は無責任な小心者だった

契丹 9 その他の国や民族

蕭思温(しょう しおん)は契丹(遼)の宰相。

4代穆宗や5代景宗に仕えました。

書物の知識はあったようですが、軍人としての才能に乏しく、横暴にふるまう穆宗を諌めようともしなかったので人々の評判はあまりよくありません。

娘たちを皇族に嫁がせて誰が皇帝になってもいいように工作したり。4代穆宗の死後、他の重臣とともに景宗を担いで皇帝にするなど政治工作には熱心でした。

しかし人々の恨みをかっていたせいか狩りに出かけたところを暗殺されてしまいます。

史実の蕭思温はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

蕭思温の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:970年

姓 :蕭(しょう)
名称:思温(しおん)

国:契丹(遼)
地位:北府宰相、駙馬

父:蕭忽沒里
母:
兄:蕭敵魯
妻:燕国大長公主 呂不古

子供:
長男:蕭隗因
養子:蕭継先

長女:蕭胡輦(太平王 耶律罨撒葛の妻)
次女:蕭伊勒蘭(趙王 耶律喜隠 の妻)
三女:蕭綽(景宗 耶律明扆の妻)

彼は遼(契丹)の2代太宗~5代景宗の時代に活躍しました。

日本では平安時代になります。

 

皇后の一族

契丹の名門「拔里氏」の生まれ。

拔里(たくり)氏は契丹の部族の一つ。遼建国前から耶律(やりつ)氏と婚姻関係を結び契丹の中でも有力な部族のひとつでした。

遼(契丹)の2代皇帝 太宗の時代。抜里・乙室已・述律の3つの一族は太宗から漢姓の「蕭」を与えられ、以後は「蕭」を名乗りました。

蕭姓は前漢の建国者劉邦りゅう ほうを助けた忠臣・蕭何しょう かにちなんで名付けられました。

契丹国(遼)の初代皇帝 耶律阿保機やりつ あぼきは劉邦を助けた蕭何のような臣下が欲しいと願い、拔里氏と乙室氏(いずれも阿保機の母や祖母の家系)に「蕭」姓を与えたのが始まり。皇帝を裏切らない忠実な一族としての願いが込められています。

遼の皇帝は漢にちなんで「劉」の姓をもってますが。歴史上はほとんど使われません。

後に2代皇帝 太宗 耶律堯骨やりつ ぎょうこつが皇后の述律じゅつりつ氏に「蕭」姓を与えました。

その後は蕭氏は皇后を出せる家柄(后族)、舅(妻の父)の一族(舅族)とされ。契丹の皇后は蕭氏(抜里・乙室・述律)いずれかの一族から選ばれます。

そのため「蕭」を名乗っていても出身一族が違うこともあります。

蕭思温のおいたち

父の蕭忽沒里 は 宰相 蕭敵魯の弟。

太宗 耶律堯骨の時代に役職につき。奚禿里太尉や群牧都林牙(北部方面の役職)を務めました。

太宗 の長女 燕国大長公主 呂不古と結婚。駙馬(皇帝の娘婿)になりました。

その後、南京留守(南京なんけい:今の北京)の防衛責任者)になりました。

蕭思温は書物の知識に詳しく、身だしなみにも気遣っていました。ところが気が小さくて細かいことにいちいちこだわりすぎて部下の将兵たちから評判がよくありません。

蕭思温には娘が三人いました。長女の胡輦は 太平王 耶律罨撒葛の妻、次女の伊勒蘭は趙王 耶律喜隠と結婚させました。三女の蕭綽は後に景宗 耶律明扆と結婚します。いずれも有力な皇族と結婚させ、どの系統が残っても蕭家が生き残れるようにしていました。

 

穆宗の時代

応暦8年(958年)。後周が南唐の揚州を攻めました。4代 穆宗 耶律述律やりつ じゅつりつは、後周のすきをついて蕭思温に攻撃命令を出しました。ところが蕭思温は暑さを理由に出兵を遅らせ蕭思温はいくつかの城を落として南京に戻ってきただけでした。

応暦9年(959年)。後周に攻められていくつかの領土を奪われてしまいます。配下の将兵は士気が高く、敵を迎え撃とうと言います。でも怖気づいた蕭思温は戦いを避け。穆宗に援軍要請しました。

ところが幸運なことに後周の皇帝 世宗 柴栄さい えいが病死。後周軍が撤退。蕭思温は残った2000ばかりの後周軍に戦いを挑んで撃退しました。

応暦10年(960年)。宋軍が北漢の石州を攻撃。蕭思温は兵を率いて北漢の救援に向かいました。

蕭思温は穆宗の外戚(妻が穆宗の姉妹)だったので穆宗からも信頼されていました。穆宗は酒癖が悪く些細なことで人を罰したり処刑したりしていました。でも蕭思温は外戚として穆宗を注意しようとしません。そのため士大夫(官僚・儒学者)からは評判がよくありませんでした。

応暦19年(969年)。穆宗が狩りにでかけて熊を仕留めました。蕭思温は夷離畢牙里斯たちと酒を贈って祝いました。すると酒によった穆宗は料理人の辛古(斯奴古)たちに暗殺されてしまいます。

穆宗の死後。蕭思温は南院枢密使の高勲やこう くん飛龍使の女里じょりらとともに耶律明扆(景宗)を皇帝にしました。

景宗の時代

保寧元年(969年)3月。蕭思温は北院枢密使になりました。北府宰相も兼任します。娘の蕭燕燕(後の蕭太后)を景宗に嫁がせて貴妃にしたあと。そのあとすぐに皇后にしました。

蕭思温は「尚書令」の位を与えられ「魏王」になりました。

保寧2年(970年)5月。景宗とともに山に狩りに出かけました。ところが親戚の蕭海只・蕭海里の兄弟に暗殺されてしまいます。

9月。蕭海只・蕭海里が逮捕処刑されました。

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年、中国 演:劉奕君 

史実では無責任で有能とはいえない人物ですが。ドラマの蕭思温は忠義心に厚い良い人物として描かれています。ヒロインの親だからといって立派な人物にする必要はないと思うのですけど。歴史書のイメージとはかなり違います。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました