PR

解憂公主・謀反人の家に生まれ3人の烏孫王の妃になった漢の公主

前漢 7 漢

解憂(かいゆう)公主は漢の皇族。

本名は劉解憂(りゅう・かいゆう)。

解憂公主(かいゆうこうしゅ)と呼ばれています。

漢の皇室の一族ですが祖父の代で皇帝に反乱をおこして鎮圧され。解憂の一家は謀反人あつかいになりました。

その後、烏孫(うそん)国の王に嫁ぎました。烏孫(うそん)は現在のキルギスにあった遊牧民の国です。

解憂公主は軍須靡、翁歸靡(肥王)、泥靡(狂王)と三人の王と結婚しました。遊牧民には先代が死ぬとその妻は後継者と再婚するという習慣があったためです。

史実の解憂公主はどんな人物だったのか紹介します。

PR

解憂の史実

いつの時代の人?

生年月日:紀元前121年
没年月日:紀元前49年

姓 :劉(りゅう)
名称:解憂(かいゆう)

国:漢→烏孫→漢
地位:右夫人
称号:公主
父:不明
祖父::楚王 劉戊
母:不明
夫:
軍須靡
翁歸靡(肥王)
泥靡(狂王)

子供:

長男・元貴靡(父:翁歸靡)
次男・萬年(父:翁歸靡)
三男・大楽(父:翁歸靡)
四男・鴟靡(父:泥靡)

長女・弟史(父:翁歸靡)
次女・素光(父:翁歸靡)

彼女が生きたのは漢の武帝~宣帝の時代です。

日本では弥生時代になります。

 

謀反人の子として生まれる

漢(前漢)の皇族ですが、両親が誰なのかわかりません。

祖先の劉交(りゅう・こう)は漢の建国者 高祖 劉邦の弟。
祖父は楚王 劉戊(りゅう・ぼ)

6代 景帝の時代。
紀元前154年。漢の王族が皇帝に反乱を起こしました。祖父の楚王 劉戊も反乱軍に加わりました。ところが将軍の周亜夫が率いる官軍に敗北。自害しました。(呉楚七国の乱)

楚王は一族の劉禮が継ぎました。

解憂の父は謀反人 劉戊の子です。名前は系図からは消されています。

紀元前121年。楚王府で 解憂(かいゆう)が生まれました。

このときの楚王は劉禮の子・劉注

解憂の父がどのような地位にいたのかはわかりません。
解憂とその家族は謀反人の一族として厳しい目にさらされ。楚王の使用人にされたか監視のもとで生きていたのかもしれません。

漢武帝は烏孫を手懐けるため政略結婚

前漢は建国以来、匈奴の配下になっていました。でも、武帝は匈奴の支配を終わらせるため戦いを仕掛けました。

そのため匈奴と敵対している烏孫(うそん)と同盟することにしました。そのころ烏孫は内紛状態でした。

武帝の時代。漢の領土が最も広かった時代の漢と烏孫の場所はこんなかんじです。

烏孫

武帝時代の漢と烏孫の大まかな位置

 

漢武帝は劉細君(りゅう・さいくん)に江都公主の称号を与え。烏孫昆弥(王)の猟驕靡(りょうきょうび)に嫁がせました。劉細君も謀反人 劉建(りゅう・けん)の娘です。

皇帝は匈奴と戦うために烏孫と同盟はしたいです。でも異民族に「実の娘は嫁がせたくありません」そこで一族の中から謀反人の娘を選んで嫁がせました。捨て駒も同じです。

烏孫では劉細君には「右夫人」の位を与えられました。
軍須靡にはすでに匈奴から来た妃がいました。匈奴出身の妃(匈奴夫人)は「左夫人」と呼ばれていました。あえて順番をつければ「左>右」 。なので左夫人の匈奴夫人の方が、右夫人の漢の公主よりも地位は上です。

その後、猟驕靡の孫の軍須靡(ぐんすび)が王位を継ぎ、劉細君は軍須靡と再婚しました。遊牧民には夫が死ぬと後を継いだものが前の妻を娶るという習慣がありました(レビラト婚)。漢民族にはない習慣なので劉細君は嫌がりましたが。漢武帝は烏孫の習慣に従うように命令します。

紀元前101年。劉細君が病死。

漢の武帝は軍須靡(ぐんすび)に新しい和親公主を嫁がせることにしました。

烏孫王に嫁いだ解憂

そこで選ばれたのが当時20歳前後だった解憂です。

解憂も王族ですが謀反人の孫。漢武帝は万が一、解憂が犠牲になってもかまわないと思っていたでしょう。

解憂は烏孫王の軍須靡に嫁ぎました。

解憂は劉細君に与えられていた「右夫人」の位を引き継ぎました。

軍須靡のいとこ翁歸靡と再婚

軍須靡は死の直前。

自分が高齢なのを理由に解憂を従兄弟の翁歸靡(おうきび)と結婚させました。軍須靡には左夫人との間に生まれた子供がいましたが。まだ幼いので王の役目は果たせません。そこで従兄弟の翁歸靡が後継者に選ばれました。

王族同士の結婚は国と国の同盟です。軍須靡は自分の死後も漢と同盟を続けるために、翁歸靡と解憂を結婚させました。

翁歸靡の時代

紀元前93年。軍須靡(ぐんすび)が死亡。翁歸靡(おうきび)が烏孫昆弥(烏孫王)になりました。

翁歸靡と解憂の間には元貴靡(げんきび)たち三男二女が生まれました。

紀元前87年。漢の武帝が死去。息子の昭帝が即位しました。

匈奴との戦争

紀元前74年。漢の昭帝が病死。息子の昌邑王が即位しました。ところが漢の国内で内紛がおこり混乱。

そのすきに匈奴が烏孫に攻めてきました。烏孫は車延・悪師の土地を取られます。

解憂は漢に援軍を送るように手紙を出しますが。漢は混乱していて援軍が出せません。

やがて宣帝が即位。

紀元前72年。あらためて翁歸靡が漢に援軍要請。宣帝は援軍派遣を決定しました。漢武帝は15万の兵を匈奴に派遣。それとともに常恵(じょう・けい)を烏孫防衛のために派遣しました。

匈奴攻撃に向かった漢軍は部隊を5つにわけて匈奴に進軍しました。ところが漢軍は匈奴相手にたいした戦果をあげられませんでした。

それどころか烏孫昆莫の翁歸靡は使節の常惠とともに5万の兵を率いて匈奴を西から攻撃。大勝利をおさめました。

息子の元貴靡と漢の公主の結婚を希望

元康2年(前64年)。解憂公主と翁歸靡の間には元貴靡(げんきび)という息子がいました。元貴靡は次の王になる予定でした。

翁歸靡は漢の公主の結婚を希望。漢との関係を深くして匈奴との縁を断つことにしました。

漢宣帝は許可。解憂公主の姪・劉相夫が結婚することになりました。劉相夫は上林苑(長安の西にあった庭園)で暮らし烏孫の言葉を勉強しました。

神爵2年(前60年)。漢の使節・常恵たちは劉相夫とともに敦煌にやってきました。

烏孫からも翁歸靡たちが敦煌に行きました。

ところが現地で翁歸靡が死亡してしまいます。死亡の理由はわかりませんがなにかアクシデントがあったのかもしれません。

次の王は元貴靡の予定でした。ところが烏孫の貴族たちは軍須靡と匈奴夫人の子・泥靡(でいび)を次の烏孫昆莫(烏孫王)にしてしまいます。

漢宣帝は烏孫に不信感をもち、元貴靡と劉相夫の結婚を破棄。劉相夫を漢に連れ戻してしまいます。

3度目の結婚

いきさつはともかく泥靡が次の王になったため。解憂公主は泥靡と再婚することになりました。

泥靡との間には鴟靡が生まれました。

ところが泥靡は乱暴で暴力的な男でした。解憂公主と泥靡の関係は悪くなり、泥靡を恨みました。

夫の暗殺に失敗

あるとき漢の使者・魏和意と任昌が烏孫にやってきました。そこで解憂公主は魏和意たちに「泥靡は人望がないので殺すのは簡単だ」と泥靡の暗殺を持ちかけました。

魏和意は酒の席で泥靡に切りつけましたが、泥靡は怪我を受けながらも騎馬で逃走。暗殺は失敗しました。

泥靡は仕返しのため息子の細沈痩を派遣。解憂公主や魏和意、任昌たちは赤谷城に立てこもり。泥靡の送った兵に包囲されてしまいます。

そこに西域都護の鄭吉(てい・きつ)が救援にかけつけました。泥靡の軍は撤退します。解憂公主たちは助けられました。

解憂公主は泥靡を憎んでいましたが、漢としては烏孫との同盟を破棄するわけにはいきません。

宣帝は中郎将の張遵を派遣。泥靡を薬で治療して金二十斤を贈ってなだめました。そして烏孫王の暗殺を企てた魏和意と任昌を長安に連行、処刑しました。そして車騎将軍・長史の張翁(ちょう・おう)は烏孫王暗殺未遂について解憂公主を尋問。このとき解憂公主の頭を掴んで罵りました。

その仕打ちに腹がたった解憂公主は皇帝に手紙を書いて訴えると。解憂公主の手紙を読んだ宣帝は張翁を処刑しました。

解憂公主にはお咎めはありません。

息子の元貴靡が烏孫王になる

負傷した泥靡は逃げていました。ところが翁歸靡と匈奴夫人の子・烏就屠に殺害されてしまいます。烏就屠は自ら烏孫王を名乗りました。

漢は烏就屠を討とうとしましたが、西域都護の鄭吉は解憂の侍女・馮嫽を説得のために派遣。馮嫽は烏就屠の説得に成功しました。烏就屠は漢に従うことになりました。

そこで漢は解憂公主の子・元貴靡を大烏孫に任命。烏就屠を小昆弥にして烏孫を二つに分けました。そして常恵に烏孫を監視させました。

漢に帰国

甘露3年(紀元前51年)。息子の元貴靡や鴟靡が病死。

元貴靡のあとは元貴靡の子の星靡が大昆弥になりました。

解憂は漢の宣帝に「私はもう老いました。骨を恋しがり、漢に葬られたい」と手紙を贈りました。解憂を気の毒に思った宣帝は彼女の帰国を許可しました。

解憂は3人の孫娘とともに漢に帰国しました。

解憂が長安に戻った時、解憂の側近・馮驩は一緒ではありませんでした。彼女は烏孫に残って星靡に仕えていました。

解憂は公主待遇をうけ、土地と侍女、奴婢を与えられ漢で暮らしました。

黄龍元年(紀元前49年)。解憂公主は長安で死去しました。

 

テレビドラマ

解憂 2016年、中国 演:張歆藝

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました