劉縯・親分気質な後漢光武帝の兄

漢5 漢

劉縯(りゅう・えん)は新朝時代の武将。

南陽の劉氏を率いる豪族でした。

後漢を建国した光武帝・劉秀の兄です。

1世紀、王莽のクーデターで前漢が滅び新朝が誕生しました。
ところが王莽は豪族たちには都合の悪い政治を行います。現実を無視した急激な改革に耐えられず、飢饉もおきて各地で反乱しました。

そんな時期に劉縯は打倒・王莽を目指し、弟の劉秀たちとともに挙兵しました。

劉縯は途中で仲間に裏切られて死亡してしまいます。後に弟の劉秀が乱れた中国を統一して後漢を建国しました。

後漢を建国した劉秀の方が注目されますが、王莽打倒に熱心だったのはむしろ劉秀よりも劉縯の方でした。地元でも人を集めて徒党を組んだり親分気質の人物だったようです。

劉縯の挙兵がなければ劉秀が後漢を建国することもなかったかもしれません。

この記事では劉縯を紹介します。

 

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劉縯の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:23年

姓 :劉(りゅう)
名称:縯(えん)
字:伯升

国:新
称号:斉武王(死後)

父:劉欽
母: 樊嫻都
兄弟姉妹
 姉:劉黄
 姉:劉元
 弟:劉仲
 弟:劉秀(光武帝)
 妹:劉伯姫

正妻:不明
子:劉章 劉興

日本では弥生時代になります。

おいたち

前漢の景帝(前188~前141年)の子孫。漢の宗室(王の一族)。
景帝の子・長沙王・劉発の玄孫(やしゃご、孫の孫)。長沙王の子孫は一族をあげて南陽(現在の河南省付近)に移住。豪族になっていました。

劉秀が生まれたのは、前漢末期の前5年1月15日。出身は荊州南陽郡蔡陽県(河南省開封市)

父は 南頓縣令の劉欽。南項城の主です。

母の樊嫻都は地方豪族の娘。樊(はん)家は裕福な家でした。

劉縯の生年は不明。長男です。

同母弟に後に後漢の光武帝になる劉秀がいます。

若いころ一族の劉嘉と共に長安で勉強。「尚書」や「春秋」を学びました。

劉縯は日頃から王莽の支配が不満でした。劉縯は自信家で豪快な性格の人物でした。私兵を雇い徒党を組んでいました。

劉縯は農業をしている弟の劉秀を馬鹿にしていました。

ヤクザの親分みたいな気質があったようです。

打倒王莽を目指して挙兵

地皇3年(22年)10月。各地で新朝に不満を持つ人達が反乱を起こすと、劉縯は李功、李軼、甄阜たちと挙兵。南陽太守を襲撃する計画をたてました。地域の若者たちは劉縯の計画を知らされてもなかなか反乱に参加しようとしません。劉縯になにされるかわからないので恐かったのです。

劉縯の弟・劉秀が反乱に加わると聞いて参加者が増えました。

ところが反乱の計画が漏れて一緒に挙兵することになっていた李通が新軍に襲撃されました。李通は逃げて無事でしたが家族は捕らえられて処刑されました。

その後、劉縯は劉縯自身は舂陵(南陽郡)で7~8千の軍勢を率いて挙兵しました。劉縯は自分たちの部隊を「柱天都部」と名付けました。

さらに劉秀・李通・李軼が宛(南陽郡)で挙兵。鄧晨が新野(南陽郡)で挙兵しました。翌月。劉縯は劉秀や鄧晨たちと合流しました。

劉縯たちは挙兵したものの、単独で新朝に抵抗できそうにはありません。そこで劉縯は先に反乱を起こして新市軍と平林軍に劉嘉を派遣して一緒に戦いたいと交渉させました。

新市軍と平林軍も南陽で影響力をもつ劉氏が味方になるのを歓迎しました。

劉縯たちと新市軍と平林軍は連合軍を結成しました。

連合軍は宛へ向けて出撃しました。最初は勝ちましたが、小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで南陽太守・甄阜の軍とたたかい敗北します。この戦いでは劉縯の姉・劉元と弟の劉仲たち一族数十人を失いました。

劉縯はいったん棘陽(南陽郡)に退却しました。

新軍は劉縯たちを攻めるために兵を勧めました。

そこで劉縯は下江軍の頭領・王常と会って説得。下江軍と合流しました。

劉縯達連合軍はさらに下江軍を加えて兵力を増やしました。

翌地皇4年(23年)1月。連合軍は新の甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けて勝利しました。この戦いで甄阜・梁丘賜を討ち取りました。劉縯はさらに新の納言将軍荘尤、秩宗将軍陳茂を破り宛を包囲しました。

劉縯は柱天大将軍を自称しました。

新軍の敗北を聞いた王莽は劉縯の首に5万戸の食邑と10万斤の賞金をかけました。

新皇帝即位

その後、連合軍は劉一族の中から天子(皇帝)を決めようということになりました。「漢」の再興を大義名分にして新に対抗するためです。

このとき劉縯と平林軍の劉玄が候補になりました。

南陽の武将たちは劉縯を支持しました。

その他の武将たちは劉玄を天子にしようと言いました。彼らは劉縯が天子になったら自分たちの思い通りにはなりそうもない、でも劉玄は臆病なので自分たちの思い通りになると思ったのです。

連合軍の武将たちは誰を天子にするかで対立しました。劉縯は連合軍の分裂を避けるため皇帝になるのを辞退しました。

地皇四年(23年)2月、劉玄は皇帝に即位。元号を「更始」、国号を「漢」にしました。そのため劉玄は更始帝と呼ばれます。

劉縯は大司徒(首相のようなもの)に任命されました。

更始帝の即位後、南陽の武将たちからは不満の声も出ましたが、劉縯は軍を率いて前線に戻りました。数ヶ月前から行っていた宛の包囲作戦を続けました。

5月。食料がなくなった宛は降伏。劉縯は宛を攻め陥としました。

劉秀も昆陽(潁川郡)で新の主力部隊に勝利しました(昆陽の戦い)。

更始帝は宛に移動して「漢」の臨時の都にしました。

更始帝たちが劉縯を排除しようとする

でも、劉縯・劉秀兄弟の評判は連合軍(漢)の中でも誰よりも高くなりました。でも更始帝の周囲の者たちは劉縯が疎ましくなってきます。

あるとき、更始帝は劉縯から宝剣を見せてもらうことになりました。この時、更始帝につかえていた申屠建が劉縯を殺害するように促しましたが、このときの更始帝は劉縯殺害を決断することができませんでした。

申屠建たちの様子を見ていた樊宏は劉縯に更始帝たちが殺害しようとしていると警告しました。でも劉縯は笑って本気にしませんでした。

また、劉縯と一緒に戦ってきた李軼が更始帝に寝返ろうとしていました。それを知った劉秀が「李軼を信用してはならない」と劉縯に言いましたが、劉縯は本気にしませんでした。

日ごろから更始帝に不満を抱いていた劉縯の部下の劉稷(劉縯の親族)が抗威将軍への就任を拒否しました。

更始帝は劉稷を逮捕。処刑しようとしました。

劉縯は劉稷の処刑を止めさせようと更始帝のもとにかけつけました。ところが更始帝によって劉縯は劉稷もろとも殺害されてしまいます。

劉縯の死後。

建武2年(26年)。更始帝から独立した弟の劉秀が光武帝に即位。

劉縯の息子劉章と劉興は、太原王(後の斉哀王)、魯王(後の北海靖王)の称号を与えられました。

建武15年(39年)。光武帝は劉縯に「斉武王」の称号を贈りました。

ちなみに三国志で有名な劉備は劉興の子孫といわれます。

テレビドラマの劉縯

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:宗峰岩

 

 

出典:amazon

 

 

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