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鄧禹・光武帝を支えた雲台二十八将筆頭は挙兵前からの学友だった

漢 7 漢

鄧禹(とう・う)は後漢の武将。

後漢を建国した光武帝・劉秀に仕え、後漢の天下統一に貢献しました。

「雲台二十八将」の筆頭です。雲台二十八将とは光武帝・劉秀の天下統一に貢献した28人の武将です。

光武帝が挙兵する前からの友人でした。

実は鄧禹は軍隊を率いる将軍としては特別有能なわけではありません。大きな敗北も何度かあります。

それでも鄧禹は光武帝から信頼されました、人事や政治、組織作りには鄧禹が大きな貢献をしました。二十八将のうち約半分は鄧禹が推薦した人物でした、人を見る目があったようです。

史実の鄧禹(とう・う)はどんな人物だったのか紹介します。

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鄧禹の史実

いつの時代の人?

生年月日:紀元前2年
没年月日:58年

姓 :鄧禹(とう)氏
名称:禹(う)
字:仲華(ちゅうか)

国:漢(後漢)
称号:高密侯→高密元侯(死後)

父:不明
母:不明
弟:鄧寬
夫:不明

子供:鄧震ほか、13人

彼は新から後漢時代の武将です。

日本では弥生時代になります。

 

おいたち

生年は前漢時代の紀元前2年。

南陽郡新野県(河南省南陽市新野県)の人です。

13歳で詩経(中国最古の詩集)を暗唱できるほどの天才でした。

その後、長安の学校で数年間勉強しました。

同じころ長安の学校には劉秀(後の光武帝)も来ていました。出身地も同じ劉秀とは親しくなりました。

学校を出ると鄧禹は故郷に帰りました。

劉玄(更始帝)が挙兵すると劉玄のもとに様々な武将や反乱軍が集まりました。鄧禹も劉玄の軍に加わらないかと誘われましたが、鄧禹は参加しませんでした。

更始1年(23年)。劉玄の元で働いていた劉秀が河北に派遣されることを聞きました。

鄧禹は劉秀を追いかけて鄴で劉秀と会いました。劉秀は久しぶりに学友に会って喜びました。そして鄧禹にどの官職が欲しいかと訪ねました。

鄧禹は官職はいらないと答えました。それを聞いた劉秀は「では何しに来たのか」と尋ねると鄧禹は「ただあなたの仲間にしていただき、少しばかりの功績をあげて歴史に名前を残したいのです」と答えました。それを聞いて劉秀は笑いました。

鄧禹は劉秀の信頼を得ました。

ある時、遠征先で鄧禹は劉秀にこう言いいました。

「更始帝は西に都を追いたけれども東はまだ安定していません。赤眉たち賊軍がいて勝手に名乗り暴れています。更始帝は彼らを倒すことができず、彼らも更始帝の命令は聞きません。将軍たちは金儲けや権力を目的にした者ばかりで、忠誠心があり民のことを思う者はいません。

四方の者たちはバラバラに動いています。あなたは漢王室を支えてきました。でもこのままでは偉大な功績を残すのは難しいでしょう。

今こそ、四方から英雄を集め、民の心を掴むため、すべての人々の命を守るため、漢の高祖(漢の建国者・劉邦)の偉業を成し遂げるべきです。

あなたには徳と才能があります。世の中を平定できるはずです。」

それを聞いた劉秀は喜び部下たちに鄧禹を「鄧将軍」と呼ばせました。そして劉秀は鄧禹とともに天下取りの作戦を立て始めました。

王郎が反乱を起こしました。劉秀は鄧禹を派遣して河北で兵を集めさせました。鄧禹は数千人の兵を集め王朗側の洛陽縣を攻略しました。

その後も劉秀の命令で、鄧禹は騎馬隊を率いて清陽の銅馬軍と戦い敵将を生け捕りにしました。その後も劉秀と鄧禹は連勝を続け河北がほぼ平定されました。

劉秀は武将を任命する時、鄧禹の意見を聞いて決めました。鄧禹が推薦する人物はそのとおりの才能を持っていました。劉秀は鄧禹には人を見る目があると感心しました。

更始2年(24年)。赤眉軍が長安に攻めこみました。更始軍が迎え撃ちましたが、劉秀は赤眉軍が有利とみていました。劉秀はこのすきに関中を占領しようと考えました。

劉秀自身は中原の攻略に専念するため、鄧禹に兵力の半分にあたる2万を与えて関中攻略を任せました。敵将の樊参を討ちました。

光武帝時代

建武1年(25年)正月。鄧禹率いる軍は河東郡の守備隊を壊滅させ。続いて安邑を攻めました。ところが安邑は数ヶ月たっても落ちません。やがて樊参が数万の兵でやってきましたがこれを返り討ちにしました。さらに王匡・成丹・劉均らの兵十余万に攻められ、樊崇が戦死。夜になって戦いが止むと韓歆や他の将軍たちは撤退を主張しました。でも鄧禹は王匡の軍は数は多いが強くないと考えて戦いを止めません。その後も戦いは続き、3日目に鄧禹たちは勝利しました。

皇帝(光武帝)に即位した劉秀は、鄧禹に使者を派遣。鄧禹を大司徒(首相に相当)に任命。酇侯と領地1万戸が与えられました。このとき鄧禹はまだ24歳でした。

鄧禹は引き続き征西軍を指揮しました。

長安攻略

河東を平定した鄧禹軍は夏陽に向かいました。このころ赤眉軍が暴れていました。赤眉軍は略奪が激しく人々は困っていました。

鄧禹軍は軍の規律がよかったので人々の注目を集め、民衆は鄧禹を歓迎しました。老人や幼い者たちが鄧禹軍に付いてくるようになりその数は百万にもなると言われました(実際に百万いたかは不明)。

鄧禹軍は長安の近くの峠まで来ました。部下はすぐに長安を攻めるように進言します。でも鄧禹はすぐには攻めませんでした。数は多くても戦えるものが少ないし、食べ物も少ない。

「赤眉軍は今はまだ長安を占領したばかりだが。やがて食料が尽きるだろう。それに対して上郡、北地、安定三郡は広大で人も多い、穀物や家畜も多い。兵を休ませ養うのだ」と言って北に向かいました。鄧禹は行く先々で赤眉軍を倒し、各地域を支配下においていきました。

劉秀は、鄧禹がなかなか長安を占領しないことにしびれを切らして「長安を占領せよ」と命令書を送りました。でも鄧禹は命令に従いません。

鄧禹は将軍の馮愔と宗歆を枸邑の守りにつかせて、自分で北方地域の占領に向かいました。ところが馮愔は宗歆を殺し鄧禹に反乱を起こしてしまいます。馮愔は後に捕らえられました。

建武2年(26年)春。光武帝は鄧禹に使者を送り侯爵の称号と4つの県を領地に与えました。

そのころ、赤眉軍は食糧不足に悩んで西に向かいんました。鄧禹はその隙に長安を占領しました。

赤眉軍に敗退

その後。群雄の1人の延岑と藍田で戦って破れました。

更始帝側の漢中王・劉嘉が鄧禹に降伏しました。ところが劉嘉の部下の李宝の態度が横暴だったので斬ったところ、李宝の弟が挙兵して鄧禹に戦いを挑んできました。その戦いで将軍の耿欣が戦死してしまいます。

さらに西に言っていた赤眉軍が長安に戻って来ました。鄧禹は食糧不足や味方の裏切りも重なって赤眉軍に敗退。高陵に逃げてきましたが兵たちは食料に苦しみました。

光武帝は「赤眉軍は食料が不足しているから東に来るのだ、馮将軍を送るから、鄧将軍は兵を動かすな」と命令。

鄧禹は自分が任命されたにも関わらず成果を出せないことを恥じて、飢えた兵を何度も出撃させましたが、負けるだけでした。

建武3年(27年)春。鄧禹は軍を率いて湖県に向かい馮異軍と合流。赤眉と戦おうとしました。馮異は赤眉軍はまだ強いので東と西から挟み撃ちにするべきだと言いましたが、馮異と将軍の鄧弘は功を焦って戦いましたが、赤眉軍に大敗。鄧禹は退却しました。

馮異も敗退しましたが、残りの兵をまとめて豁阪に向かいそこを守りきりました。

鄧禹は負けた責任をとって「大司徒」と「梁侯」返上。

光武帝は「大司徒」の職は解任しましたが、「梁侯」の称号はそのままにしました。

数月後。光武帝は鄧禹を右将軍に任命しました。

晩年

建武4年(28年)。鄧禹は鄧曄や於匡とともに延岑と戦って破り漢中へ敗走させました。鄧禹はさらに追いかけて破り、その残党を投降させました。

建武13年(37年)。光武帝が中華統一。鄧禹は高密侯になり高密﹑昌安﹑夷安﹑淳于の四県を与えられました。

大規模な戦闘がなくなると、劉秀は戦時体制から平時体制にきりかえ。左右将軍の位を廃止しました。鄧禹は光武帝の意志に素直に従い、左将軍の賈復と共に右将軍を辞めました。

国が平和になると朝廷の権力者からは距離をおくようになりました。

鄧禹は忠誠心が強く、親孝行をしたり子や孫の教育に熱心でした。違法な蓄財をすることもなく光武帝からは信頼されていました。

建武中元1年(56年)。明帝・劉荘が即位。司徒を代行。東への巡狩に随行し泰山での封禅(皇帝即位の儀式)に立ち会いました。

建武中元2年(57年)。鄧禹は明帝の太傅(皇帝の補佐役)を務めました。

永平1年(58年)。死去。享年57。

長男の鄧震が後を継ぎました。

 

テレビドラマの鄧禹

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:関智斌

陰麗華や劉秀と同郷。陰麗華のことが好きで結婚しようと思いますが拒否されます。ショックを受けて旅に出てしまいます。後に再開。鄧禹については軍に合流するまではほぼ架空の話。

 

出典:amazon

 

 

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