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陰識・陰麗華の兄は真面目人間

漢 7 漢

陰識(いん・しき)は新朝から後漢に活躍した豪族で武将。

後漢では光武帝・劉秀に仕えました。

光烈皇后・陰麗華の異母兄です。

新野で劉縯が挙兵すると、一族をつれて軍に参加。

その後、劉秀が皇帝に即位、漢(後漢)を再興すると漢に仕えました。

妹の陰麗華は光武帝の妻ですが、陰識は出世や大幅な加増は望まず目立たないようにしていました。

一族の誰か出世すると他の一族の者も次々に出世して私物化するのが中国では普通です。でも陰識や陰麗華はそういうことは望みませんでした。

公私をはっきり区別する真面目な人物だったようです。

史実の陰識はどんな人物だったのか紹介します。

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陰識の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:59年

姓 :陰(いん)氏
名称:識(しき)
字:次伯(じはく)

国:新-後漢

父:陰陸
母:不明

異母妹:陰麗華
異母弟:陰興、陰訢、陰就
妻:不明

子供:陰躬

彼が行きたのは新朝から後漢の光武帝・明帝の時代。

日本では弥生時代になります。

おいたち

生年は不明。

出身は 荊州南陽郡新野県(現在の中国河南省南陽市)

諸侯並みの力を持つ領主が陰一族です。

陰氏の祖先は斉の君主・桓公 の時代に宰相として活躍した管仲(かん・ちゅう)。

その子孫の管修が斉から楚の国に移住。「陰大夫」の称号を与えられました。それ以来「陰」姓を名乗りました。

秦の末期から漢の初めにかけて陰一族は新野に移住しました。

陰家は南陽郡新野県でも名家として栄え、広大な領地を持つ豪族でした。その豊かさは「他のどの国の諸侯よりも多くの馬と人を持っている」と言われるほどでした。

陰識はその陰家の跡取りとして生まれました。

新朝時代。

陰識は遊学のため長安に向かいました。

劉縯の挙兵に参加

地皇3年(22年)。劉縯が舂陵(南陽郡)で挙兵しました。

長安で遊学中の陰識はその知らせを聞いて故郷に帰りました。

そして一族や配下の私兵約1000を率いて劉縯の軍に参加しました。校尉に任命されました。

更始1年(23年)。劉玄が更始帝に即位しました。陰識は偏将軍に任命されました。

陰識は劉縯とともに宛城を攻略。

6月。妹の陰麗華が劉秀と結婚。

9月。劉秀が更始帝から河北の平定を命令されました。陰麗華は兄・陰識のもとに身を寄せました。

新野・育陽・杜衍・冠軍・湖陽の南陽郡5県を更始帝の配下に治めました。

更始2年(24年)。陰識は更始帝から「陰徳侯」の爵位を与えられます。「行大将軍事」になりました。

更始帝に味方していた樊崇(はん・すう)が更始帝を見限ってしまいます。

樊崇は赤眉軍を率いて南陽に攻め込んできました。

陰識や劉賜たち更始軍は赤眉軍と戦って敗北。

領地を奪われた陰識は陰麗華たち陰一族を率いて、育陽にいる鄧奉(とう・ほう)の下に身をよせました。

鄧奉は南陽郡の育陽で挙兵していました。劉賜も鄧奉のもとに身を寄せています。

漢で武将になる

建武1年(25年)。劉秀が光武帝に即位しました。

育陽にいた陰麗華のもとに洛陽に来るようにとの知らせが来ます。
陰識も洛陽に呼ばれました。

陰麗華は貴人になりました。

陰識は光武帝に仕えることになり「騎都尉」に任命され、「陰郷侯」の爵位を与えられました。

建武2年(26年)春。陰識は大司馬・呉漢(ご・かん)とともに反乱軍の檀郷を討伐、降伏させました。

さらに、執金吾・賈復とともに旧更始帝側の郾王・尹尊と戦って倒しました。

陰識は手柄をたてたので領地を加増されました。

ところが陰識は「天下は落ちつき始めたところです。将軍や指揮官で功績のある者は大勢います。私は陛下の親族ですから、さらに加増いただいては天下に示しがつきません」と言って辞退しました。

それを聞いた光武帝は賞賛しました。

その後、陰識は関都尉に任命され、函谷関の守備につきました。

さらに侍中になりましたが、母親が死亡したので帰郷しました。

妹の陰麗華が皇后になる

建武14年(38年)。陰麗華が皇后になりました。

建武15年(39年)。原鹿侯になりました。

陰麗華の息子・劉荘(後の明帝)が皇太子になると、陰識は守執金吾(代理)になりました。執金吾は首都の治安責任者です。それとともに皇太子の教育係を任されます。

陰識は光武帝からの信頼が厚く、光武帝が諸国を巡回するときには陰識が常に洛陽の留守を任されました。首都の防衛を担当しました。

陰識は宮廷や会議の場では正論を述べることが多いのですが、仕事を離れ、家族や客人と話をする時は国のことは話しませんでした。

中国では珍しく公私の区別をはっきりつけるタイプの人でした。

光武帝は陰識を尊敬し、陰識を手本にして親族にも陰識を見習うように勧めました。

また陰識は人を見る目もあり、陰識が推薦した人物には有能な者が多かったといいます。

陰麗華の息子・明帝が即位すると陰識は正式に執金吾になりました。

永平2年(59年)死去。

貞侯の諡号が贈られました。

光武帝は身内には甘い皇帝でした。寵愛を集める陰皇后の兄弟の立場を利用して職権乱用しようと思えばいくらでもできたはずです。でも陰識はそれをしませんでした。陰皇后も望みませんでした。陰家の下っ端には偉そうにする者もいたようですが。いつの時代も下っ端は主人の権威を利用して威張るものです。

それでも後漢末期の外戚の横暴ぶりに比べれば陰家はおとなしかったのです。

光武帝が身内にはだらしない皇帝だったのにそれほど評判が悪くならなかったのは、皇帝を支える者たちがしっかりしていたからなのでしょう。

陰麗華が名皇后といわれるのはモラルのある親族がいたからなのかもしれません。

テレビドラマ

 

 秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:ワン・ユー(王雨)

早くに父親が亡くなったので若くして陰家の当主になっているという設定。
ドラマでも堅物で妹たちのしつけにうるさい一面をみせます。劉兄弟の挙兵後は軍に参加。陰識については史実に近い内容でドラマが進みます。

出典:amazon

 

 

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