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寧平長公主・劉伯姫 光武帝の妹は意外に大人しかった?

漢 7 漢

寧平長公主・劉伯姫(りゅう・はくき)は、後漢の光武帝・劉秀の妹。

劉伯姫の夫は、劉縯・劉秀兄弟とともに挙兵した李通です。

劉秀が後漢建国後は夫の李通とともに洛陽に呼ばれて洛陽で暮らしました。

姉の劉黄が皇帝の姉の地位を利用して好き勝手なことをしていましたが、妹の劉伯姫にはそのような記録がありません。

意外と大人しかったのかもしれません。

史実の劉伯姫(りゅう・はくき)はどんな人物だったのか紹介します。

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劉伯姫の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :劉(りゅう)氏
名称:伯姫(はくき)

国:新→後漢(漢)
称号:寧平長公主

父: 劉欽
母:樊嫻都

姉:劉黄、劉元
兄:劉縯、劉仲、劉秀(光武帝)

夫:李通
子供:李音、李雄?

日本では弥生時代になります。

おいたち

劉家は前漢の第6代皇帝・景帝の子孫です。
皇位を引き継ぐ権利はなく、南陽郡に移住して地方豪族になっていました。

劉伯姫の生年は不明。

劉秀が紀元前5年の生まれなので、それより後です。

荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)出身。

父は劉欽。
南頓の県令(知事)でした。

母は樊嫺都。

姉:劉黄、劉元
兄:劉縯、劉仲、劉秀(光武帝)

伯姫は劉家の末っ子でした。

西暦3年に父・劉欽が死亡。

その後は他の兄弟とともに叔父・劉良に育てられました。

地皇3年(22年)。劉縯・劉秀、李通・李軼たちが挙兵しました。

地皇3年(22年)。劉縯たちの軍は、小長安聚(南陽郡育陽県)で新の太守・甄阜率いる新軍と戦いました。ところが劉縯たちは大敗。

敗走する途中で伯姫は劉秀に救出されました。伯姫は劉秀とともに馬に乗って逃走。さらに逃げる途中で、姉の劉元とその3人の娘を見つけました。でも劉元は救出を拒否。自分たちをおいて逃げるように言いました。劉秀と劉伯姫は助かりましたが。劉元とその娘たちは新軍に殺されてしまいます。

更始2年(24年)2月。李通が更始帝・劉玄から西平王に任命され、荊州の守りを任されました。

劉伯姫は李通と結婚しました。

後漢の時代・寧平長公主になる

建武1年(25年)6月。劉秀が皇帝(光武帝)に即位。洛陽を都にして、国号を 漢(後漢)にしました。

光武帝・劉秀は陰麗華を洛陽に呼びました。それと当時に、劉黄、劉伯姫も洛陽に呼びました。

このとき、夫の李通も光武帝に呼ばれました。

建武2年(26年)。劉伯姫は「寧平長公主」の称号を与えられました。

長公主は「皇帝の姉妹」という意味です。

その後の、劉伯姫の記録はありません。

次姉の劉元と違い、光武帝・劉秀即位後も行きていて都に来ています。夫の李通は後漢の重臣です。それにもかかわらず記録がありません。

同じような境遇で長姉の劉黄はいくつかのエピソードが記録されています。

身内に甘い光武帝ですから劉伯姫が何かを要求したら聞いてくれたかもしれませんが。まったく記録がありません。劉伯姫は劉黄と違って目立つようなことはしていなかったのでしょう。

夫の李通も光武帝の義弟の地位を得ましたが。とくに問題は起こしていません。

李通と劉伯姫の間には李雄という息子が生まれています。

李通には李音と李雄の息子がいますが。二人とも劉伯姫が生んだのかは不明です。

 

テレビドラマの劉伯姫

秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:白卉子

ドラマでも劉家の末っ子。
鄧禹のことが好き。でも鄧禹は陰麗華に夢中。
そのせいで陰麗華が嫌いです。
劉秀の挙兵に付いてくるため男装した陰麗華を見破ったのも劉伯姫。
なにかと嫌がらせする小姑のポジション。

でも陰麗華に助けられるうちに誤解がとけてきます。

劉秀が河北を統一するまでに李通と結婚。
後漢建国後は洛陽で暮らします。

 

出典:amazon

 

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