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烏孫昆弥 軍須靡(ぐんすび)解憂公主の最初の夫

烏孫9 その他の国や民族

軍須靡(ぐんすび)は紀元前1世紀頃の烏孫の昆弥(こんび、昆莫とも書きます)。

昆弥(または昆莫)とは「王」を意味する烏孫(うそん)の称号です。

つまり軍須靡は烏孫王です。

烏孫は今のキルギスのあたりにあった遊牧民の国です。

烏孫は匈奴と漢に挟まれた小国でしたが。西域では有力な国でした。

軍須靡の父は烏孫太子でしたが若くして死亡。祖父のあとをついで烏孫王になりました。

軍須靡の時代も烏孫は匈奴と漢の両方と関係を保ちバランスをうまくとって生き残ろうとします。軍須靡のもとには漢からは王族の劉解憂が輿入れして。漢との同盟を続けました。

史実の軍須靡はどんな人物だったのか紹介します。

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昆弥 軍須靡の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

名称: 軍須靡(ぐんすび)

国:烏孫(うそん)
地位:岑陬→昆弥(王)

祖父:昆莫獵驕靡
父:烏孫太子
母:不明
妻:
左夫人:匈奴夫人(名前は不明)
右夫人:劉細君、劉解憂

子供:
泥靡(母:匈奴夫人)

彼は烏孫の王です

日本では弥生時代になります。

軍須靡(ぐんすび)の祖父は烏孫(うそん)の昆弥(こんび)または昆莫(こんまく=王)。猟驕靡(りょうきょうび)。

猟驕靡以前は烏孫の民は匈奴に服従していました。でも力をつけた猟驕靡は民を率いて匈奴から独立しました。

軍須靡の父は猟驕靡の息子。猟驕靡には何人かの息子がいましたが、軍須靡の父は最年長で烏孫の太子(王位後継者)でした。名前は伝わっていません。

軍須靡は猟驕靡の長孫(孫の中で最年長者)でした。

軍須靡は岑陬(しんすう)という位を与えられていました。

 

烏孫の後継者争い

軍須靡の父は太子として将来を期待されていました。ところが太子は若くして亡くなっています。

太子は死の間際。「軍須靡を太子にして他の者がその位を奪うことのないようにしてください」と言い残して死亡しました。

猟驕靡は非常に嘆き悲しみました。そして息子を哀れに思い、息子の言う通り軍須靡に岑陬(しんすう)の位を与え。後継者にしました。

ところが猟驕靡の決定に起こったのが叔父の大禄(だいろく)です。「大禄」とは官名なので本名ではありません。宰相のような役目です。

大禄は太子の弟でした。戦が強く民衆を率いるのが得意。1万あまりの騎兵をもっていました。

大禄は兄の太子が亡くなったのなら自分が後継者だと言い出したのです。大禄は兵を集め戦う準備をはじめました。

高齢の猟驕靡は自分の死後、軍須靡が殺されるのではないかと心配しました。そこで軍須靡に1万の兵を与えて守らせました。

こうして烏孫は昆莫・大禄・岑陬の3つの集団にわかれました。烏孫の隊分は昆莫の猟驕靡が率いています。

敵は大禄だけではありません。匈奴も烏孫が分裂を狙っています。そこで猟驕靡は漢の力を借りて敵対勢力に対抗しようとしました。

漢の武帝に朝貢して漢から公主(王女)を迎えました。前漢から来たのが和親公主の劉細君です。

猟驕靡はすでに匈奴から来た妻がいました。匈奴出身の匈奴夫人には「左夫人」の位が与えられ。漢から来た「右夫人」の位が与えられました。

左の方が右よりも上なので。左夫人の方が格上です。

烏孫は匈奴との付き合いが長く匈奴の力は無視できません。漢から来た劉細君よりも匈奴夫人の方が偉いのです。

しかし猟驕靡は自分はもう高齢だというので、劉細君は軍須靡と結婚させました。

昆莫(烏孫王)になる

紀元前105年ころ。昆莫(烏孫王)の猟驕靡が死去。

軍須靡が新しい昆莫(烏孫王)になりました。

烏孫は匈奴から独立した国です。でも完全に匈奴と縁が切れたのではありません。匈奴から王女を迎えて政略結婚で関係を維持していました。

軍須靡も匈奴と漢の両方との関係を維持しようとしました。

二人の妻

軍須靡は猟驕靡の妻だった左夫人も妻にむかえました。

遊牧民の世界は一夫多妻制。左夫人と右夫人のどちらも妻です。

左夫人の匈奴夫人との間には息子の泥靡(でいび)が生まれました。

右夫人の劉細君との間位には娘の少夫が生まれました。

やがて右夫人の劉細君が病死。

そこで軍須靡は漢に新しい公主を迎えたいと言いました。

漢の武帝は王族の劉解憂(りゅう・かいゆう)を和親公主を烏孫に嫁がせました。劉解憂は新しい右夫人になりました。

その後、軍須靡は病死。

息子の泥靡がまだ幼かったので従兄弟の翁歸靡(おうきび)が昆莫(烏孫王)になりました。

 

 

テレビドラマ

大漢天子 2006年、中国 演:付雋
解憂   2016年、中国 演:袁文康

 

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