黄歇は春秋戦国時代の名宰相だった

ドラマ「ミーユエ」に登場する黄歇は実在の人物。

楚の宰相で戦国四君(春秋戦国時代に最も活躍した4人)の一人に数えられる人物です。

ところが、ドラマ・ミーユエでは黄歇は羋月(宣太后)の幼馴染として登場しますが、実際には宣太后よりも1世代くらい後の時代の人物です。

ドラマでは語られない史実の黄歇の姿を紹介します。

黄歇とは

姓:黄(おう)
名前:歇(あつ)
別 名:春申君(しゅんしんくん)
生 年:不明
没 年:紀元前238年
父:不明 
母:不明

黄歇の生きた時代とは

黄歇が生きたのは紀元前3世紀の春秋戦国時代。
当時は周が分裂していくつかの国が争っていました。当時存在した主な国は秦・趙・楚・魏・燕・韓(朝鮮半島の国とは別物)などです。

黄歇が産まれたのは中国南東部になった楚(そ)という国。

後に中国を統一する秦(しん)は楚の西隣にあった国です。

日本では弥生時代になります。

機転をきかせて考烈王を即位させる

黄歇の両親はよく分かっていません。
一説には古代中国・春秋戦国時代の楚(そ)の国の王族だといわれます。懐王の子だという歴史家もいます。

黄歇は、楚の頃襄王(けいじょうおう)に仕えていました。

紀元前274年。秦は魏や韓と同盟して楚を攻めようとしていました。黄歇は頃襄王の使者になって秦の昭襄王に会いました。秦と楚が争うことの無意味さを説明して楚への攻撃をやめさせました。楚は和睦の証として太子の完(後の考烈王)を秦に送りました。黄歇は完の側近となって秦に向かいました。

紀元前264年。楚の頃襄王が病に倒れました。太子完がいない間に頃襄王が死亡すれば完以外の者が王になってしまうかもしれません。黄歇は秦の宰相・范雎と相談します。秦の昭襄王はまず黄歇を楚に戻して様子をみることにしました。

ところが黄歇は楚に戻らすに太子完を帰国させてしまいました。昭襄王は怒って黄歇を殺そうとしましたが、宰相の范雎がとりなして無事でした。かわりに太子完の弟・昌文君を人質にすることで決着しました。黄歇も帰国しました。

そして頃襄王の死後、太子完が即位して考烈王(こうれつおう)となりました。

黄歇はこの功績で令尹(れいいん=宰相)になり、淮北の土地をもらいました。また、春申君(しゅんしんくん)と名乗りました。

令尹(宰相)になった黄歇

紀元前258年。趙の首都邯鄲が秦に包囲されました。趙は楚に援軍をもとめてきました。春申君は軍を率いて趙の救援に向かいます。すると秦は撤退しました。

紀元前248年。自分の領土である淮北を王の直轄地にすることを提案。かわりに江東をもらいました。江東はかつての呉の国があったところ、呉の城を自分の城にしました。これは王族やたの重臣の妬みをさけるためにあえて都から遠い江東に本拠地を移したのだといわれます。

その後、春申君は南にある魯の国を滅ぼしました。

紀元前241年。他の国と連合して秦を攻めましたが失敗。この敗退で考烈王は春申君を避けるようになります。

春申君の提案で楚は寿春へ遷都しました。

春申君の最期

春申君の食客に李園という人物がいました。李園には李環という妹がいました。李園はいずれ考烈王に妹を差し出そうと思っていました。

李環は美人だったので春申君も気に入っていました。やがて李環は春申君の子を身籠ります。李園は春申君に対して李環を考烈王に差し出せばその子が次の王になるかもしれない。と言いました。春申君は李園の言葉を信じてしまい李環を考烈王に嫁がせました。李環は王妃になり李園は重臣に取り立てられました。

その後、李園は真相がばれるのを恐れて春申君を殺そうとしました。春申君の知人の朱英は李園は危険なので殺すべきだといいます。しかし春申君は李園を甘く見ていたので放置していました。朱英は見の危険を感じて逃げてしまいます。

考烈王の死後、春申君は李園によって殺害されます。そして李園の産んだ子が幽王となりました。

しかしこの話は史実ではないともいわれます。春申君の最期は前半生の活躍ぶりに比べるとあまりにも浅はかです。歴史家の司馬遷は春申君は老いぼれていたのだ。といいますが何処まで本当なのかはわかりません。
歴史上は幽王は考烈王の実の子だとされています。


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