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陽泉君は姉の華陽夫人に贏異人を太子にするように説得した

秦 8 春秋戦国

陽泉君は「戦国策」という古代中国の歴史書にも名前の出てくる人物です。

本名は分かっていません。ドラマ「コウラン伝」では熊宸という名前がついています。

陽泉君は 楚(そ)の人。

姉は華陽(かよう)夫人。
華陽夫人は秦の太子 安国君(贏柱)の妻。

陽泉君は呂不韋に会い。華陽夫人に贏異人を養子にするように説得しました。

歴史の記録に登場する陽泉君と、ドラマに登場する「熊宸」を紹介します。

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陽泉君とは

出身地:楚
姓:羋(ビ)
氏:熊
名前:不明
生没年:不明

姉:華陽夫人(太后)羋氏

紀元前3世紀の中国・春秋戦国時代。

陽泉君は楚の国出身。

楚の国出身。姓は 羋(び)です。

だから宣侯夫人も「羋」姓なのですね。

楚の羋(び)一族といえば、中国ドラマ「ミーユエ」に登場するヒロイン羋月(ミーユエ)のモデルになった宣太后が有名です。

宣太后は昭襄王の生母。安国君の祖母。異人の曾祖母です。

陽泉君は宣太后の同母弟・華陽君 羋戎(び・じゅう)の子孫。

つなり、陽泉君とその姉たちは秦の王家とは遠い親戚なのです。

とはいっても春秋戦国時代の中国では王族同士の結婚は珍しくありません。国と国の同盟には政略結婚がつきものですから。国と国が戦っているのに王族同士は遠い親戚。というのはよくある話です。

とくに楚は秦にとっても油断のできない大国。何度も政略結婚をしてよい関係を保とうとしているのです。

さらに、華陽君 羋戎は昭襄王に仕えた范雎と対立して左遷されています。羋戎の子孫だからといって高い地位にいるとは限りません。

呂不韋と取引

「戦国策」という歴史書によると。

秦の孝文王の時代。

呂不韋が秦に来ました。そして陽泉君に会いました。

当時、秦の宮廷で最も力のある王子は側室の生んだ子傒でした。

華陽夫人は孝文王の寵愛を受けていましたが子供がいません。そこで秦に人質に出ている異人を華陽夫人の養子にして後継者にするよう、陽泉君に説得を依頼しました。

異人が秦王後に即位後も華陽夫人とその弟・陽泉君はひきつづき人々から尊敬を集めよい思いができます。

陽泉君は「そのとおりだ」思い、と呂不韋の提案に賛成。姉の華陽夫人を説得しました。華陽夫人は夫を説得して嬴異人を秦から呼び戻し養子にしました。

司馬遷の書いた歴史書「史記」などではこの出来事があったのは昭襄王の時代。呂不韋は華陽(かよう)夫人の姉・羋氏に金品を渡して説得したと書かれています。

どちらにしても、陽泉君と 華陽夫人の姉 は呂不韋の説得をうけてすっかりその気になって華陽夫人を説得したのです。呂不韋は金も使ったそうですから、言葉だけでなく多額の金銭が動いたのは間違いないでしょう。

その後の「陽泉君」については記録はありません。

ドラマ「コウラン伝」では

ドラマ「コウラン伝」では「陽泉君」の本名は「熊宸」となっています。

楚国の王室・羋氏の親戚。

姓は羋ですが、名字は「熊」です。この春秋戦国時代の中国では大きな血縁集団を意味する「姓」と、そこから分家した小さな集団を意味する「氏」がありました。

陽泉君の場合は、姓は「羋」、氏は「熊」だったのです。

日本でも本姓が「源」、名字が「徳川」というのに似ています。

中国では後の時代になると姓と氏の区別がなくなり「氏」だけを使うようになります。漢の時代以降、儒教が普及すると中国では「祖先から受け継いだ姓は変えてはいけない」という考えが広まったのと関係あるようです。

ドラマでは

陽泉君・熊宸 の設定は

熊家は楚国の王室の分家ですが今は没落しています。
現在は秦の国で暮らしている。

宣太后の同母弟で秦の重臣として仕えた 華陽君 羋戎の子孫 を意識しているようです。

羋笙歌と華陽夫人の弟
羋絲蘿の養父。
羋雲夢の祖父。

陽泉君は最初は呂不韋に友好的ではありませんでした。贏子傒から呂不韋が華陽夫人を説得するのを妨害するように言われます。

後に子楚が華陽夫人の養子になり王になると、ふたたび呂不韋と対立します。

養女の羋絲蘿が子楚の側室になり男子・ 成蟜を生みました。

すると成蟜は李皓鑭の生んだ贏政と王位を争うようになります。

当然、陽泉君は成蟜の味方です。

陽泉君は呂不韋が邪魔になって殺害しようとしますが、羋笙歌に阻止されます。羋笙歌は陽泉君の姉ですが、有能な商人の呂不韋に好意をもっていたのです。

その後、呂不韋と王妃・李皓鑭が不倫関係にあると訴え、子楚王を退位に追い込もうとします。しかし最後は羋笙歌に暗殺されます。

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