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程嬰(ていえい)趙家の再興に命をかけた医師「趙氏孤児」

春秋戦国 8 春秋戦国

程嬰(てい・えい)は紀元前6世紀頃。古代中国の春秋戦国時代に生きた人物。

「趙氏孤児」という物語に登場する人物です。司馬遷の書いた「史記」にも名前が出ていて実在した人物とされています。

「趙氏孤児」とは元朝時代に書かれた小説。趙家が滅ぼされ、趙家の遺児の趙武(ちょう・ぶ)が家を採光するまでの物語です。「趙氏孤児」は「史記」に載っている普国の趙家を襲った事件を元ネタに書かれています。

「史記」や「趙氏孤児」では程嬰(ていえい)は趙武を助けて、趙家の再興に力を尽くす勇敢な人物と描かれています。

中国でも伝説的な人物です。

程嬰とはどんな人物だったのか、「史記」や「趙氏孤児」の内容をもとに紹介します。

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程嬰(てい・えい)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:紀元前583年

姓 :程(てい)
名称:嬰(えい)

国:晋国

日本では弥生時代になります。

 

親友の趙家の災難に遭遇

言い伝えによると、程嬰(てい・えい)は古少梁邑(現在の中国陝西省韓城西少梁附近程荘)の出身。

医師でした。

普の大臣 趙盾(ちょう・とん)とその子・趙朔(ちょう・さく)の友人だったとされます。趙家は普の国でも大きな力を持つ一族でした。

程嬰は趙朔の食客だったともいわれます。食客とは能力を見込まれて雇われている人です。

普景公3年(紀元前597年)。趙盾の一族は屠岸賈(と・がんこ)に滅ぼされてしまいます。趙朔も死亡しました。趙朔の妻(荘姫)は普成公の姉。妊娠中の荘姫は里帰りして宮殿にいたので助かりました。この事件を「下宮の難」といいます。

このとき公孫杵臼(こうそん・しょきゅう)は「なぜ程嬰が友人の趙朔とともに運命をともにしなかったのか?」と聞きました。

程嬰は「趙朔の婦人は妊娠中だ。もし運良く男の子が生まれれば仕える。女ならば死ぬ」と言いました。程嬰と公孫杵臼は協力して趙家を救うと誓いました。

しばらくして荘姫は男子を出産。趙武(ちょう・ぶ)と名付けられました。

それを知った屠岸賈は部下を派遣して宮中を調べさせました。荘姫は赤ん坊を隠して逃げることに成功しました。

趙武を助ける

荘姫は程嬰に子供を守ってくれるようにお願いしました。

程嬰は赤ん坊を助けるにはどうすればいいか公孫杵臼と相談。

公孫杵臼は「一人で死ぬのと孤児を養うのとどちらが大変か?」と質問しました。

程嬰は「孤児を養うより、一人で死ぬ方が楽だ」と答えました。

公孫杵臼は程嬰の決意に心をうたれ、程嬰に孤児の養育という難題を引き受けてもらい、杵臼自身は先に死ぬかもしれない役目を引き受けました。

二人は他人の赤ん坊を奪って(程嬰は自分の子供を犠牲にしたという説もあります)趙武の身代わりにしました。公孫杵臼が赤ん坊を抱いて山に逃亡。

程嬰は屠岸賈に自首して金をくれれば居場所を白状すると言いました。程嬰から赤ん坊の居場所を聞き出した屠岸賈は程嬰とともに部下を派遣。赤ん坊を抱いた公孫杵臼は追い詰められました。

公孫杵臼は、屠岸賈の手下とともに現れた程嬰を見て「友の遺児を見捨てた裏切り者め!恥知らずの悪党だ!」と罵り。「ああ、天よ。趙家の子供に何の罪があるのですか?やつだけを殺してこの子は助けてください」と叫びました。

公孫杵臼の願いは叶えられず、公孫杵臼は赤ん坊とともに屠岸賈の手下に殺されました。

もちろんこれは程嬰と公孫杵臼が打ち合わせして決めた大芝居です。でも公孫杵臼と誰かの赤子の命が犠牲になりました。

屠岸賈は趙家が滅びたと考え。もう誰も復習しに来る人はいないだろうと安心しました。

趙家再興

程嬰は世間から「裏切り者」とよばれながらも山中で暮らし。趙武に偽名をあたえて育てました。

15年後。

程嬰は知人の韓厥(かん・けつ)とともに趙家の再興をしようと動き出しました。韓厥は普景公に趙家の再興を訴えました。

普景公が韓厥に「趙家に子孫はいないのか?」と聞くと、韓厥は程嬰が保護した趙朔の子供がいることを伝えます。それを聞いた普景公は趙朔の子と程嬰を宮殿に呼び出しました。普景公は趙武を趙家の跡継ぎと認め、普国の貴族に復権させると宣言しました。

趙家は再興され、程嬰と趙武は屠岸賈を攻撃して殺害、仇をうちました。

趙武が20歲になり冠禮式(成人の儀式)を行いました。

程嬰は悲願達成したと思い、趙武たちに別れを言いました。

そして程嬰は公孫杵臼を死なせてしまったことへの罪悪感を持ちつつ生き続けたこと。それまで生きていたのは命が惜しいからではなく、趙家再興の目的のためだったことを証明したいと言うのでした。

趙武は泣きながら自害を思いとどまるように説得しました。

でも程嬰の意志は変わらず、自害して果てました。

淳佑2年(1242年)。南宋の理宗から「忠濟王」の称号を与えられました。

どこまでが史実かは謎

程嬰の話は「史記」に書かれているので史実と信じる人もいますが。同じ事件を記録したはずの「春秋左氏伝」では違う内容のことが書かれています。

「春秋左氏伝」によると。

趙朔の妻の荘姫がおじの趙嬰斉と浮気してそれが発覚。趙嬰斉は追放され、恨んだ趙嬰斉が景公に嘘の告げ口をして。景公が趙朔を滅ぼしました。その後、荘姫が趙武を出産。趙武は荘姫のもとで育てられ、韓厥の進言で趙家が復活。

程嬰の出番がありません。

普国はその後、趙・魏・韓に分裂。趙は戦国七雄のひとつになりました。中原にあった趙は春秋戦国時代を争った国の中でも経済や文化が発展した国のひとつでした。また、趙は始皇帝の母・趙姫の母国です。

その趙国を造ったのが趙武の子孫。

その趙家の没落と再興をドラマチックに描いたのが「趙氏孤児」。その中で重要な枠割を演じるのが程嬰です。

「趙氏孤児」は小説なのですべてが史実とはいえず。元ネタになった「史記」の話もどこまでが本当なのかわかりません。

「春秋左氏伝」は「史記」よりも古い書物。司馬遷は「史記」を書くときに「春秋左氏伝」も参考にしました。でも趙氏事件については「春秋左氏伝」の内容を採用しませんでした。司馬遷は「儒教的にこうあるべき」という理想のために「史記」を書いています。当然、脚色された部分もあります。

唐の時代以降。史記の内容には疑惑がもたれていて「程嬰、公孫杵臼、屠岸賈は実在しない」という説もあります。

それにも関わらず程嬰は千年以上中国人に人気のある人物です。

二千年以上も前の事件なのに。今から千年前から人気になったということは。元朝時代に発売された小説「趙氏孤児」で知った人がほとんどだからです。

 

テレビドラマと映画

テレビドラマ
天命の子〜趙氏孤児 2013年、中国 演:

映画
運命の子 2011年、中国 演:葛優(グォ・ヨウ)

チェン・カイコー監督が映画化。日本でも「運命の子」というタイトルで上映されました。テレビドラマ版より映画版で知った人もいると思います。

 

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