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魏冄・有能だけど公私混同が激しすぎた宰相

春秋戦国 8 春秋戦国

魏冄(ぎ・ぜん)は古代中国の秦の宰相。

ドラマ「羋冄(ミーユエ)」など。始皇帝よりも前の時代がドラマ化され宣太后の人気が上がりました。でも宣太后はお飾り的な存在で、実際には魏冄や宣太后の一族が秦の政治を動かしていました。

魏冄と宣太后の一族の力は大きく。

宣太后、魏冄、羋戎をあわせて三貴(戦国策)。

魏冄、羋戎、高陵君(公子芾)、涇陽君(公子悝)をあわせて四貴(史記)。

といわれました。

宣太后の子・昭襄王の時代に秦は大きく発展し、始皇帝の中国統一の基礎ができあがります。その昭襄王の登場まで秦を支えていたのが魏冄たちです。

ところが魏冄や宣太后、その一族は力を持ちすぎました。やがて成長した昭襄王によって追放されてしまいます。

史実の魏冄はどんな人物だったのか紹介します。

 

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魏冄の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :羋(び)
氏 :魏(ぎ)
名称:冄(ぜん)

国:楚→秦
地位: 大将軍→丞相

父:不明
母:不明
姉:宣太后(羋八子)
弟:羋戎

彼は秦の宰相で将軍です。

日本では弥生時代になります。

おいたち

楚の国出身。楚の国の王族です。
生まれた年は不明。
異父同母姉に宣太后(羋八子)、華陽君 羋戎がいます。姉弟なのに姓が違うのはそのためといわれます。

一節には同父母姉弟ともいいます。

姉の羋八子は人質として秦に送られました。羋八子は秦の秦恵文王の寵愛を受け側室になりました。

紀元前325年。羋八子が公子稷(後の昭襄王)を出産。

時期はわかりませんが秦の恵文王に仕えました。寵愛をうける姉のつてを頼って仕官したのかもしれません。

魏冄は羋八子の兄弟や親族の中で一番頭が良かったといいます。そのため恵文王に気に入られて役職を与えられました。

紀元前311年。秦の恵文王が死去。太子だった武王があとを継ぎました。武王は恵文王時代の臣下をそのまま使ったので、魏冄も武王に仕えました。

時期は不明ですが公子稷は燕に人質として送られます。

紀元前307年。秦の武王が急死。若い武王には跡継ぎがいません。そこで弟たちの間で後継者争いが起こりました。

恵文王の正室・恵文妃は側室の産んだ公子壮を次の王にしようとしました。
恵文妃に対抗して羋八子は自分が産んだ公子芾を次の王にしようとしていました。宰相の樗里 疾(ちょり しつ)にも協力を求めていました。

ところが、このとき趙の武霊王が秦の後継者問題に介入。燕で人質になっている公子稷を王にするよう主張してきました。秦の大臣たちの多くは反対しました。でも魏冄は公子稷の即位に賛成でした。

魏冄たちの支持を得て公子稷は秦の王になりなりました。

昭襄王の時代

一族で秦を動かす

秦の王になった稷は死後・昭襄王と呼ばれます。

昭襄王は18歳でしたが。母・宣太后と魏冄が政治の実権を握っていました。さらに宣太后は同母弟の羋戎を秦に呼び寄せました。

宣太后が昭襄王の後見者になり。実質的には魏冄と羋戎が秦の政治を行っていました。魏冄は将軍になり秦の軍隊の指揮権を得ます。

反対派を滅ぼす

紀元前306~305年。後継者争いに破れた公子壮が反乱を起こしました。

魏冄は反乱を鎮圧しました。

魏冄は公子荘や公子雍たち。反乱に加わった者を滅ぼしました。恵文王の正室・恵文后や公子荘たちを支持した大臣たちも処刑しました。武王の正室・武王后を魏に追放(あるいは逃亡)しました。

反乱を鎮圧した魏冄の権力はますます高まりました。

秦は宣太后の兄弟の魏冄、羋戎。
昭襄王の弟(宣太后の子)の高陵君(公子芾)と涇陽君(公子悝)。

4人の宣太后一族が秦を支配しました。「四貴」といいます。

四貴の力は大きく、若い昭襄王の力を超えていました。

紀元前300年。樗里 疾が死亡。

紀元前299年。昭襄王は涇陽君(公子悝)を斉に人質として送って同盟しました。斉からは孟嘗君が来て宰相になりました。孟嘗君は殺されそうになって逃亡します。

紀元前297年。昭襄王は趙出身の楼緩を宰相にしました。

趙は楼緩を呼び戻そうと考え、秦に使者を送って楼緩を解雇して魏冄を宰相にするように言いました。

紀元前295年。楼緩は解任され趙に戻り。魏冄が宰相になりました。

紀元前293年。魏冄は白起を採用。白起を将軍にしました。

紀元前292年。病気のため宰相を辞任。

紀元前291年。再び魏冄が宰相になりました。このとき穣(現在の河南省南陽市鄧州市)と、陶(現在の山東省菏沢市定陶区)の地を与えられました。

このため魏冄を「穣侯・陶公」といいます。

紀元前290年。魏の戦いに出陣。魏の河内の地を攻略。60あまりの城を落としました。

紀元前283年。宰相を解任されます。

紀元前281年。宰相になりました。

紀元前278年。将軍の白起に命じて楚を攻めさせました。楚の郢の地を占領。秦の領土にしました。白起は「武安君」と名乗ります。

紀元前276年。「相国」になりました。相国は最高の地位です。

魏冄は、最も力のある重臣になりました。

紀元前276年。魏冄は自ら軍をひきいて魏と戦いました。魏の都・大梁を包囲しました。魏の大夫須賈の説得で包囲を止めました。

ところが、紀元前275年。魏が秦を裏切って斉と同盟しました。そこで魏冄は再び軍を率いて魏に攻め込み、魏と韓の軍を破りました。この功績で領地が増やされました。

紀元前274年。白起や客卿(個人的に雇っている者)の公孫胡昜とともに出陣。

紀元前271年。斉を攻撃。占領した領地を自分のものにしました。

魏冄は宰相として秦の政治を行うだけでなく、将軍として軍を率いて他国と戦いました。魏冄が有能だったのは確かなのですが、自分たちの領土を広げるために戦争を行ったり。秦が占領した土地を自分のものにしたりと。公私混同が激しかったのです。

魏冄だけでなく弟の羋戎、甥の高陵君・涇陽君の領地も増やしました。魏冄と宣太后のいち族のために戦争をしているようなものでした。

 

力を持ちすぎて左遷される

やがて昭襄王は范雎(はん しょ)を採用。范雎の助言をうけて宣太后の一族に権力が集中しすぎていること、王室よりも魏冄たちの方が財産を持っていること。臣下に任せきりにしないように助言をうけます。

紀元前265年。昭襄王は魏冄を解任。魏冄、羋戎、高陵君、涇陽君を函谷関の外に移住させ。中央から遠ざけました。

魏冄は中央の政治からは遠ざけられましたが命までは奪われなかったため。自分の領地で悠々自適の生活をおくり一生を終えました。

昭襄王は魏冄の死後、財産を没収しました。魏冄の財産は王室の財産よりもはるかに多かったといいます。

魏冄のおかげで他国の領土が減り、結果的に秦が強くなったわけですが。公私混同が激しすぎたようです。

 

ドラマ

 

大秦帝国之崛起 2017年、中国 演:趙春羊
ミーユエ  2015年、中国 演:張釣涵。

 

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