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白起・秦の最強武将の栄光と最期

秦 8 春秋戦国

白起は紀元前3世紀ごろの秦の武将。

古代中国の春秋戦国時代の人物です。

王翦・廉頗・李牧とともに春秋戦国時代の「戦国四名将」のひとりといわれます。

秦の昭襄王の時代。当時最も強かった武将のひとりで、秦の領土拡大に貢献しました。

最期は昭襄王によって自害を命じられてしまいます。

 

史実の白起はどんな人物だったのか紹介します。

 

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白 起(はく・き)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:紀元前257年11月

姓:贏(えい)
氏:白(はく)
名:起(き)

紀元前7世紀ごろの秦の王子、公子白(贏白)の子孫。そのため 公孫起ともいいます。「公孫」とは公子(王子)の子孫という意味です。

称号:武安君
父:不明
母:不明

 

おいたち

出身地は秦国の郿(び)(現在の中国 陝西省宝鶏市)という町。

『新唐書』の「宰相世系表」によれば、彼の祖先は秦の穆公(紀元前7世紀ごろの秦の君主)に仕えた白乙丙だったといいます。

一方、唐代の詩人・白居易は「故鞏県令白府君事状」で白起の先祖は楚国の公族・白公勝だと書いています。白公勝は反乱を企て失敗、自殺。彼の息子が秦に逃れ、その子孫が秦に仕えたとされます。

秦の将軍として活躍

白起は判断力に優れ、意志が固く、優れた軍事的才能を持っていました。穰侯 魏冉との関係も非常に良好でした。

昭襄王13年(紀元前294年)。秦の昭襄王は白起を左庶長に任命。白起は韓の新城を攻めました。

魏冉の推薦により白起は左更に昇進。主将になりました。

伊闕(いけつ)の戦い

昭襄王14年(紀元前293年)。韓・魏・周の連合軍が伊闕(現在の河南省洛陽市龍門鎮)で秦軍と対峙しました。

秦国側の兵力は韓・魏連合軍の半分以下。連合軍側では韓軍が兵力不足であり、魏軍が先陣を切るのを期待されていました。白起は韓・魏両国連合軍が力を温存しようと、責任を押し付け合って先制攻撃をしない弱点を利用。

まず偽の兵を使って韓軍の主力を牽制。その後、魏軍に奇襲をかけました。魏軍の敗北により韓軍も敗走。多くの兵を討ち取り魏の将軍・公孫喜を捕らえました。

戦後、白起は国尉に昇進。

その後、白起は韓・魏両国が伊闕の戦いで惨敗した隙をついて黄河を渡り安邑(現在の山西省夏県の北)から乾河までの広大な土地を奪取しました。

昭襄王15年(紀元前292年)。大良造に任命され魏を攻撃。大小合わせて61の城を落としました。

鄢郢の戦い

昭襄王29年(紀元前278年)。楚の首都・郢を攻め落としました。そのため楚は陳に遷都しました。

白起は「武安君」の称号を授けられました。

華陽の戦い

昭襄王34年(紀元前273年)。趙と魏が韓の華陽(現在の河南省鄭州市南部)を攻めました。白起は昭襄王の命令で韓の援軍に向かい。魏・趙を撃退、13万を討ち取り。その後、趙の将軍・賈偃と戦って勝利、2万の兵士を黄河に追い詰め沈めました。

白起は華陽を占領。その後、魏、趙の領内に攻め込みいくつかの城を攻め落とし。魏国の首都・大梁を包囲。秦と魏の間で和睦交渉が行われ、包囲を解きました。

陘城の戦い

昭襄王43年(紀元前264年)、韓の陘城を攻め、5つの城を落とし、5万の兵を討ち取りました。

長平の戦い

昭襄王48年(紀元前259年)。秦は王陵や王齕に趙を攻めさせました。趙の総大将・廉頗は秦との直接対決を避けて持久戦に持ち込みました。

そこで秦の宰相・范雎は偽情報を流すと、それを信じた趙王は廉頗を趙括に交代させました。

昭襄王は白起を総大将に任命・趙に攻撃命令を出しました。白起は秦軍を率いて趙括の率いる趙軍と戦って勝利。白起は趙軍の立てこもる長平城を包囲しました。46日の籠城戦の末、食料が尽きた趙の兵たちは人肉を食べるほど追い込まれ、趙括は最後の突撃を試みましたが。秦軍は趙軍を撃退。趙括は戦死、趙兵20万を捕虜にしました。

しかし秦も趙との戦いで国力を消耗。秦軍には投降した大量の兵を養う兵糧はなく。秦に連行する余裕もありません。かといってそのまま帰すわけにもいかず、白起は趙兵20万を生き埋めにするよう命じました。

ところが白起の力が大きくなるのを恐れた宰相の范雎が昭襄王を説得して撤退命令を出しました。

誇張されすぎ?

中国の歴史書は数字が誇張されていることが多く。中国の記録で、数十万の戦果とか数十万の虐殺とか書かれていても信用できません。なので白起の20万の兵を生き埋めにしたというのも怪しいものです。

戦場跡からは数百人分の人骨が発見されています。戦いで多くの犠牲者が出たのは確かなようですが。数十万単位の犠牲者とか、生き埋めは誇張された表現のようです。

 

白起の最期

大勝利目前での決定に白起は怒りました。秦軍の兵士の犠牲はもちろん、趙兵たちの死も無駄になると思ったからです。

白起は秦に戻っても「病気」を理由に朝廷には出ず家に引きこもりました。

慌てた范雎と昭襄王が再び軍の指揮をとるように求めましたが、白起は拒否。

白起の頑固な態度に昭襄王は怒りました。そして昭襄王は白起に自決を命令。自決用の剣を白起の家に届けさせました。

自決用の剣を受け取った白起は「なぜこのような仕打ちを受けなければいけないのか」と考えましたが。やがて「20万の趙兵を生き埋めにしたことを天が怒っているのだ」と考え、自決しました。

秦の民は白起の死を嘆き悲しんで

 

テレビドラマ

ミーユエ 2015、中国 演:曾虹暢
大秦帝国 2017、中国 演:邢佳棟
コウラン伝 2019、中国 演:於彥凱 

 

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