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商鞅・変法で秦を最強国に変えた政治家の悲劇

秦 8 春秋戦国

商鞅(しょう・おう)は古代中国の春秋戦国時代の政治家。

衛鞅(えい・おう)ともいいます。

衛国出身。魏で学んだ後。
秦の孝公に仕えて秦を改革。

遅れていた秦を中原の強国に対抗できる国に育てました。

この改革は「商鞅の変法」と呼ばれます。

史実の商鞅はどんな人物だったのか紹介します。

 

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商鞅の史実

いつの時代の人?

生年月日:紀元前390年 
没年月日:紀元前338年

姓 :姫(き)
氏 :公孫(こうそん)、衛(えい)、商(しょう)
名称:鞅(おう)
通称:衛鞅(えい おう)、商鞅(しょう おう)

国:衛→魏→秦

日本では弥生時代になります。

 

おいたち

商鞅は秦で功績を上げた後の呼び方。公孫鞅とよばれました。

商鞅の生年は不明。
衛国の君主の孫。

君主の孫のため「公孫鞅」と名乗りました。

魏で法を学ぶ

若い頃は刑や法に興味を持ち李悝の教えに興味を持ちました。そこで衛を出て魏の李悝に教えを受けました。でもこのころ李悝は亡くなっているので李悝の教えを受け継ぐ人たちに教えを受けたのでしょう。

鞅の名字は「公孫」ですが、君主の孫を公孫と呼ぶのは他国でも同じ。鞅は魏の公孫ではないので、衛国を出たら公孫は名乗りづらいです。そこで衛出身なので「衛鞅」と名乗りました。

魏国では李悝の教えや呉起の教えなどを学びました(呉起本人はすでにいない)。

魏の宰相・公叔痤に仕える

衛鞅は魏国の国相・公叔痤に仕え中庶子になりました。中庶子とは家庭教師のようなものです。

やがて公叔痤は重病になると魏の恵王が見舞いに来て公叔痤のあと誰を頼ればいいのか聞いてきました。そこで公叔痤は衛鞅を魏恵王に推薦しました。

でも恵王は知らない人物に国を任せたくありません。恵王は「悲しいことだ。公叔痤ほどの人物でも、よそ者に国を任せよというのか。もうまともな判断ができないようだな」と言って帰りました。恵王と入れ替わりで衛鞅は公叔痤に会いました。

公叔痤は「そなたを採用しないなら、殺した方がいいと言った。王はお前を殺すだろう。早く逃げなさい」と言いました。

すると衛鞅は「あの王が貴方様のことを信用しないのなら、あなた様の忠告を信じて私を殺すこともないでしょう」と言いました。

その後、公叔痤が亡くななり衛鞅は葬儀を行うと魏を出ました。

恵王は衛鞅をとるにたらない者と思っていたのか、衛鞅を捕まえようとも殺そうともしませんでした。

 

秦にやって来る

前362年。秦の孝公が即位しました。

このころ黄河周辺には6つの大国(戦国六雄)があり、それ以外に十数の小国が存在していました。すでに周の王室は衰退。戦国六雄は会盟(同盟)を結び領土拡大していました。

秦国は僻地にあったので六雄からは相手にされず野蛮人だと思われていました。そのため会盟にも誘われていません。

秦孝公は即位後、六雄に対抗しかつて奪われた領土を取り戻すため富国強兵しようと思いました。そこで出身国に関係なく優秀な人材を募集します。

紀元前361年。衛鞅は秦が人材募集しているのを知り李悝の「法経」を持って秦に向かいました。

でも衛鞅は名が知られているわけではありませんし、秦に知人はいません。そこで衛鞅は秦で情報を集め景監が孝公の寵臣だと知ります。景監は孝公に信頼されていますが宦官です。知識人は宦官を卑しい存在と思っているので宦官に雇われようとする文人知識人はいません。でも衛鞅はあえて景監に近づきました。景監は衛鞅を食客として雇いました。

衛鞅は景監の紹介で孝公に面会しました。

最初の面会では衛王は「帝道」を孝公に語りました。でも孝公はその内容が気に入りません。景監を通して衛鞅を非難します。

五日後、衛鞅は再び孝公に面会。今度は「王道」を語りました。孝公はそれも受け入れません。再び景監を通して衛鞅を責めました。景監も不安になりましたが衛鞅は景監に頼み込んでもう一度合わせて欲しいと頼み込みました。

三度目の面会では衛鞅は「霸道」を語りました。孝公はその考えに興味を持ちましたが、まだ採用はしません。でも衛鞅は孝公の好みが分かりました。

次にあった時、衛鞅は孝公に富国強兵の策を熱く語りました。孝公は衛鞅の話に夢中になり衛鞅を採用しました。

不思議に思った景監は、頑固な孝公をどうやって説得したのか衛鞅に聞きました。衛鞅は夏、殷、周を例えにして帝王の道を説明しましたが、孝公はそれでは長すぎるので一代で成果の出る方法を求めていたというのです。

「帝王の道」は儒家で理想の国つくりとされる方法。君主が徳を高め国を治めることですが、具体性に欠けた理想論です。「霸道」は目的を決めてそれに向かって突き進むことでした。そのかわり霸道で作り上げた国は徳では殷や周に及ばないと衛鞅は思っていました。

と「史記」には書かれているのですが。この部分は演出じみていますし衛鞅が孝公に採用されたことや秦が滅んだことを知っている儒学者が作った作文のような気もします。

実際のやり取りがはわかりませんが、衛鞅は孝公に気に入ってもらえる方法を提案したのでしょう。孝公の信頼を得るために時間はかかったかもしれませんが孝公は魏の恵王と違って見知らぬ衛鞅を認めました。衛鞅は孝公と話をして、この国なら自分の知識や能力を活かせると思ったのではないでしょうか。

 

変法の争い

秦の孝公は国を強くするため改革したいと思っていましたが、臣下たちの反対を恐れていました。衛鞅は孝公を説得。すると孝公は決心して改革を議論するように臣下たちに命じます。

臣下たちは反対しました。衛鞅以外は皆反対意見ばかりです。特に強く反対したのが甘龍でした。衛鞅は臣下の中では孤立していましたが、孝公は衛鞅の味方でした。

数年に渡って改革の必要性を議論。衛鞅は孝公の支援もあり反対派を押し切りました。

 

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商鞅変法

墾草令

紀元前359年。議論が治まると孝公は衛鞅に「墾草令」を制定するよう命じました。改革の始まりです。

この法令の主要な内容は農業生産の活性化、商業の発達の抑制、社会的価値の再構築、農業の社会的認知度の向上、貴族や官吏の特権の弱体化、国内貴族の農業生産への参加、統一的な租税・家賃制度の実施などです。

それをもとに衛鞅は更に具体的な内容を決めていきました。

第一次変法

紀元前356年。秦の恵公は衛鞅を左丞相に任命し、法改正を実施しました。

主な内容は以下の通りです。

・戸籍を作り、民衆の家を十戸(什)か五戸(伍)で一組にしてお互いに監視させる。罪を犯した者がいたのに訴えない場合はその組全てが連座で罰を受けます。訴えた者には褒美が出ます。
・一つの家に成人した男子が2人以上いる場合は分家させる。分けない場合は税が重くなる。
・二十段階の爵位を作り、軍で功績を上げたものには爵位を与える。私闘を行ったものには罰を与える。
・遠い王族や貴族といえども功績のない者は降格させる。
・男は農業、女は紡績を奨励。
・商業活動は抑制。
・法を作り違反者には厳罰を与える。

などです。

徙木立信

法を作ったものの民に守らせなければいけません。そのためには法を作った者が約束を守る態度を見せないといけません。

そこで衛は都の市場の南門に三丈(約9メートル)の木を立てました。その木を北門まで運んだ者には即座に10両の賞金を与えると発表しました。でも誰もが木を運ぶ者はいませんでした。すると衛鞅は賞金を50両に増額しました。すると1人の人物が木を北門まで運び、50両の賞金を受け取りました。

衛鞅はこれで命令は必ず実行されることを示しました。

これが「徙木立信(しぼくのしん)=約束を必ず守ること」のことわざの語源になりました。

 

力を蓄え領土拡大

紀元前358年。秦は西山(現在の河南省熊耳山以西)で韓の軍隊を撃破しました。

紀元前357年。楚の宣王は秦孝公の娘を迎えて秦との政略結婚を行い結びつきを強めました。

紀元前355年。秦の孝公と魏の恵王は同盟しました。秦国が中原の諸侯から認められるようになりました。

河西の戦い

秦の孝公にとって、失われた河西を奪還するのは悲願でした。孝公は即位すると河西の奪還を国の目標にしました。そのためには国を強くする必要があったのです。

紀元前354年。趙国と衛国が戦争になり、衛国の同盟国の魏国も参戦。魏国は趙国の首都・邯郸(現在の河北省邯郸市)を包囲しました。

秦の孝公は魏軍の主力が出ている隙に魏国を奇襲。魏国の重要拠点・元里(現在の陝西省澄城県南)を攻撃して勝利。少梁(現在の陝西省韓城市西南)を占拠しました。

安邑、固陽の戦い

紀元前353年。桂陵の戦いで魏が斉に大敗。趙に味方する楚も魏に攻め込み睢水と濊水の間の土地を奪いました。

すると紀元前352年。秦の孝公は衛鞅を大良造に任命。弱った魏を攻めさせました。衛鞅は軍を率いて魏に侵攻。安邑(現在の山西省夏県北西)を占拠しました。その後、魏の反撃にあってそれ以上の進軍はできませんでしたが。紀元前351年には衛鞅は再び魏を攻めて固陽を占領しました。

 

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第二次変法

こうして中原諸国と同盟を結んで攻められる可能性を減らし、その間に次の改革を進めました。

紀元前350年。秦は雍から咸陽へ遷都しました。

同じ年に衛鞅はさらなる変法を行いました。

父子兄弟が一つの家に住むことを禁止。
全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き中央集権化を徹底しました。

井田を廃し田地の区画整理を行いました。
度量衡を統一しました。

 

太子駟との確執

新しい法ができてしばらくたちましたが反対する人は大勢います。世襲が禁止されたので王侯貴族の反発は大きく、私有地が制限されたので地主や富豪も不満でした。都では抗議する人たちが数千人押し寄せました。

紀元前346年。太子駟が新法に違反。商鞅は貴族が法を守らないから民衆も守らないのだと考えました。でも君主と太子は法の支配の外にいるので罰することはできません。

商鞅は太子の家庭教師の公子虔、師匠の公孫賈に刑罰を科しました。その後、公子虔が新法に違反し、劓刑に処されました。すると秦の人々は新法を守るようになりました。

このエピソードは司馬遷の「史記」では第一次変法と第二次変法の間のことになってます。ですが太子の師傅たちが処罰されたのは紀元前346年なので第二次変法の後のことだと思われます。

いずれにしてもこの件で太子駟は商鞅をひどく恨みました。

 

領土拡大

逢澤会盟

魏の恵王は諸侯を集めて秦への攻撃を計画しました。秦の孝公は防衛を強化するよう命じ、衛鞅の策略を採用しました。

紀元前344年。秦の孝公は衛鞅を魏に派遣して恵王を説得。の燕と連携して齊を攻撃、趙を屈服させ、西方では秦と連携、南方では楚を攻撃し、韓を屈服させるよう説得しました。

商鞅はさらに、恵王に王号を名のり天下を治めるように提案しました。恵王は商鞅の説得を受けて、王号を名のり天子を真似して宮殿を建設、丹衣や九施、七星の旗を製作。小国を招集しました。秦の公子、趙の肅侯も招待され、諸侯が会盟した後、周の天子に謁見しました。

しかし天下の主のようにふるまう魏の恵王の行動に齊や楚などの国々が反発。諸侯は次々と齊国に寝返りました。

西鄙の戦い

前341年、魏国は馬陵の戦いで齊国に大敗。太子の申は捕らえられました。

商鞅は秦の孝公にこの機会に魏を攻撃するよう提案。秦の孝公は商鞅の提案を採用して、魏国がまだ力を取り戻していないうちに、大規模な攻撃を開始することを決定しました。

紀元前341年。秦は齊と趙と連携して魏国を攻撃しました。
9月、秦の孝公の命令で商鞅は軍を率いて魏の河東を攻撃。魏軍と対峙すると、魏軍を率いる公子卬に使者を送り和平を求めました。公子卬が商鞅のもとにやって来ると、商鞅は伏兵を配置して魏の公子卬を捉え、魏軍を攻撃。魏軍は大敗しました。

魏の恵王は河西の一部の土地を割譲、和平を求めました。この時、魏の恵王は「公叔痤の言葉を聞かなかったことを後悔している。あのとき衛鞅を殺しておけばよかった」と言いました。

この大勝利で衛鞅は秦の孝公から商という土地の十五邑を与えられ「商君」と呼ばれました。

そのため衛鞅は商鞅とも呼ばれます。

没落の始まり

 

紀元前338年。秦の孝公が病に倒れました。

すると趙良が商鞅のところにやって来ました。趙良は商鞅が今まで行ったことを延々と批判。そして商鞅が君主から見捨てられたら秦の人々は商鞅を捉えるだろう。そうなる前に国からもらった土地を返してどこか遠くに行き土地でも耕して暮らすようにと言いました。

でも商鞅は辞めませんでした。

それから5ヶ月後。秦の孝公が病死。その子・恵文君 嬴駟が即位しました。

 

恵文君の時代

恵文君はかつて師匠を商鞅に殺され恨んでいます(恵文君が違法行為を働いたから身代わりに罰を受けたのですが)。

王侯貴族の中にも商鞅の変法を憎むものは大勢いました。彼らは恵文君に商鞅を処分するように進言。

かつて商鞅から罰を受けた公子虔たちは商鞅が謀反を働いていると告発。秦の恵文君は商鞅を捕らえるよう命じました。

商鞅は辺境に逃げました。ところが夜に宿に泊まろうとしたら、身分証明書を持っていなかったので宿屋の主人は商鞅だと気づかず宿泊を断りました。新法で処罰されるのを恐れたのです。

商鞅は悲しんで「制定された法律がここまで害を及ぼすとは!」と嘆きました。

「作法自斃」の故事の由来です。

商鞅は親族や部下と共に魏国に逃亡しましたが、魏で捕まって追放されました。

商鞅が秦の領地に戻ると兵を動員。県の役所を攻撃しました。秦の恵文君は軍を派遣し、商鞅は戦いに敗れ死亡しました。その遺体は都の咸陽に持ち帰られ、車裂きの刑に処せられました。そして秦の恵文君は謀反人であり商鞅の一族を根絶やしにするように命じました。

ところが商鞅の死後、彼が導入した新法は廃止されませんでした。

商鞅はやりすぎた部分もありましたが。商鞅の変法のおかげで秦は国力を高め強い国になりました。商鞅の変法は後の秦や始皇帝の時代まで影響を与え続け、中央集権的な中国王朝のモデルになりました。

 

テレビドラマ

大秦帝国  2009年、中国 演:王志飛 
キングダム~戦国の七雄 2019年、中国 演:喻恩泰

 

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