金舒玄(キム・ソヒョン)は新羅の武人。
本人の功績よりも、金庾信の父親。といったほうがわかりやすいです。
金官伽耶の首露王の血を受け継ぐ名門出身で、金舒玄本人も優秀な武人だったようです。
史実の金舒玄(キム・ソヒョン)はどんな人物だったのか紹介します。
金舒玄(キム・ソヒョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:564年
没年月日:不明
名前:金舒玄(キム・ソヒョン)
父:金武力
母:朴氏
妻:萬明夫人
子供:
長男:金庾信(595年-673年)
次男:金欽純(599年-?)
娘:永昌夫人
娘:文明王后
娘:金政姬
主に活躍したのは新羅の24代真興王~26代真平王の時代です。
日本では飛鳥時代になります。
金首露の子孫
金舒玄(キム・ソヒョン)は金官伽倻王の孫です。
632年か662年に新羅の攻撃を受けた金官伽倻は新羅に降伏。金官伽倻の王族は新羅の貴族として取り立てられました。
新羅は高句麗や百済に比べて発展が遅れていました。そこで他国からの移民を積極的に受け入れ国力を強化していました。高句麗や百済、中国側の土地にいた人も受けれいていました。
敵対していた伽倻諸国の人々でも新羅に協力するなら国民として迎えていたのです。
とくに元王族を貴族して迎え入れば彼らのもつ人脈も利用でき、反乱も防げるので伽耶諸国の王族は優遇されました。
金官伽倻は初代・首露王から続く一族といわれます。三国史記では首露王は「どこから来たのか分からない」と書かれています。その一方で「金庾信碑」からの引用として「軒轅(黄帝)の後裔、少昊の子孫」とも書かれています。
首露王といえば「金の卵が降臨した」話が知られています。でも卵神話は後の時代の創作。金庾信の時代までは「首露王は軒轅(黄帝)の後裔、少昊の子孫」と名乗っていたようです。新羅王家も「少昊の子孫」と名乗っていました。だから新羅王家と金官伽耶王家は「金」姓なのだ。と書かれています。
黄帝は神話に登場する人物なので事実とは思えませんが。
旧金官伽耶王族は新羅王家と始祖を共有するのは認められていたようです。逆に言えば、新羅はそこまでしてでも旧金官伽耶王族を味方にしておきたかったのでしょう。
おいたち
564年。金舒玄(キム・ソヒョン)は新羅で生まれました。
父は金武力。金官伽倻の最後の王・金仇衡の息子。
母は朴氏。
朴氏も新羅の有力な一族です。
「三国史記」によると、あるとき金舒玄が道を歩いていると真興王の姪・萬明と出会いました。そして気に入って結婚することにしました。
その後、金舒玄は万魯郡の太守になりました。
ところが萬明の父・粛訖宗は二人の関係が気に入らなかったようです。粛訖宗は萬明を説得して結婚を辞めさせようとしましたが、萬明は聞きません。そこで粛訖宗は萬明を部屋に閉じ込めました。そこに雷が落ちて見張りがいなくなったので、萬明は家を飛び出して万魯郡の金舒玄のもとに向かいました。
金舒玄は旧金官伽倻の王族。叔母が24代国王・真興王の妃にもなっていました。新羅王室とは親戚なのです。金舒玄は真骨貴族(新羅王族かそれに準ずる地位)あつかいになっていました。
粛訖宗は22代新羅国王・智証麻立干の子孫。古い新羅王族です。
さすがに道端で出会って気に入ったから王族と結婚は無理があります。
新羅王家と旧金官伽倻王族の政略結婚だったのでしょう。でも古い新羅王族の中には旧伽倻勢力が力をつけることに反対するものもいたようです。
ある日、金舒玄は1万の金の鎧を来た子供が雲に乗ってやってくる夢を見ました。その後生まれたのが金庾信です。
英雄によくある異常な誕生物語です。このころの新羅は仏教が流行りだしていたので仏教の来迎図をヒントに考えたのかもしれません。
金舒玄はその後、揚州(現慶尚南道梁山)総官になりました。百済との戦いでは軍を率いて戦い、何度も功績をあげました。
真平王の時代。629年。金龍春(キム·ヨンチュン)、金庾信(キム·ユシン)とともに大将軍になりました。高句麗の城を攻めました。はじめは不利でしたが、金庾信が戦闘にたって戦い勝利しました。
万魯郡の太守、大量州都督をへて小判という地位に付きました。
その後、どうなったのか詳しい記録はありません。金庾信たちにまかせて余生を送っていたのでしょう。
テレビドラマ
ヨンゲソムン SBS 2006年 演:朴相奎
善徳女王 MBC 2009年 演:鄭性模
階伯 MBC 2011年 演:李忠九
大王の夢 KBS 2012年 演:崔日和、金東允
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