乾隆帝は清王朝の全盛期を作った皇帝です。清王朝だけでなく歴代中国王朝の中でも最も栄えた時代といっていいくらいです。
ところが中国ドラマでは、皇太后・鈕祜祿(ニオフル)氏は乾隆帝の実の母ではなく養母。
実の母は別にいる。という設定が多いです。
「なんで皇太后なのに養母なの?」と思いますよね。
歴史上は乾隆帝の生母は鈕祜祿(ニオフル)氏です。
でもなぜ実母なのにドラマでは養母の設定にされてしまうのでしょうか?
そこには日本では考えられない中国の事情があるのです。
人気ドラマの乾隆帝の母親
はずは人気の中国ドラマ「瓔珞(エイラク)」と「如懿伝(にょいでん)」「宮廷の諍い女」に登場する乾隆帝の母親を紹介します。
瓔珞(エイラク)の設定
劇中では皇后・輝発那拉(ホイファナラ)氏と宦官の袁春望は乾隆帝と皇太后・鈕祜祿氏の仲を引き裂くために策略を使いました。このとき乾隆帝は皇太后の実の子ではない。本当の母は銭氏。鈕祜祿氏が第四皇子を奪って銭氏を殺した。と噂を流します。
皇太后は乾隆帝の養母なのは認めました。でも「銭氏は殺していない」と言います。
最終的には乾隆帝は「鈕祜祿氏は生母ではなくても育ての親には違いない」と仲直りします。
どちらにしても
乾隆帝の生母は銭氏。
皇太后は養母。
という設定です。
如懿伝(にょいでん)・宮廷の諍い女 の設定
「如懿伝(にょいでん)(原題:後宮如懿傳)」は「宮廷の諍い女(原題:後宮甄嬛傳)」の続編として作られました。キャラクターの性格や一部設定が違うので正当な続編とはいえないかもしれません。
でも、おおまかな設定は引き継いでいます。
鈕祜禄氏は「宮廷の諍い女」ではヒロインでした。
でも「如懿伝」ではあまりいいようには描かれません。そのせいか性格がかなり変わっています。
どちらのドラマでも鈕祜禄氏は乾隆帝(弘暦)の養母。という設定は同じです。
乾隆帝の生母は宮女の李金桂です。
李金桂は熱河(現在の河北省)の避暑山荘で働く奴婢でした。
熱河の避暑山荘は清朝歴代皇帝お気に入りの離宮です。歴代皇帝はときどき熱河の山荘に行って暑い夏を過ごしていました。といっても遊びに行ってるのではなく、北方の遊牧民を統治するためのもう一つの宮殿なのです。
雍正帝が熱河の離宮に行った時、間違って鹿血を飲んでしまい錯乱して李金桂と一夜をともにしてしまいました。弘暦を生んだ李金桂は死亡。熱河に埋葬されました。雍正帝が弘暦と距離をおいて接していたのは恥ずかしかったから。
という設定。
こちらは。
乾隆帝の生母は李金桂。
皇太后は養母。
というわけで、瓔珞(エイラク)、如懿伝(にょいでん)、宮廷の諍い女 の3大人気ドラマでは乾隆帝の生母は鈕祜祿氏でないのです。
熱河に避暑山荘があったのは事実。雍正帝も気に入っていたのは事実。でもさすがにそこの奴婢に手を出して子供を作ったとか、他の側女が生んだ子を横取りした。というのは作り話です。
すでに清の時代に乾隆帝は漢人の子という都市伝説があった
なぜ事実ではないのに似たような内容のエピソードが別々のドラマで描かれるのでしょうか。
もともと清朝時代から乾隆帝は鈕祜祿氏の子ではない。という都市伝説があったからです。
中国の都市伝説その1・乾隆帝の両親は陳氏夫婦
清の時代からある有名な伝説。
浙江省海寧州に陳一族がいました。明の時代から続く官僚の一族。清の時代にも官僚として仕えています。陳氏と皇帝になる前の雍正帝(胤禛)は仲がよく、よく家に遊びに行っていました。
あるとき胤禛に男の子が生まれました。陳氏にも男の子が生まれました。二人は誕生日が同じ。これを喜んだ胤禛は喜んで、子供を陳氏と取り替えた。
というお話。
「いや、いくら仲が良くても王室の子供は取り替えないでしょう」
と突っ込みたくなります。
別のバージョンでは。
胤禛の妃が生んだ子供は女の子だった。そこで胤禛が知らない間に妃が陳氏の息子と取り替えた。
というのもあります。
雍正帝は陳氏の本拠地のある江南地方に何度か行幸しています。このとき陳氏の家にも立ち寄ったことがあります。陳氏は雍正帝から信頼されていた役人でした。
それを見た人々は「何かあるに違いない」とうわさ話を作ったようです。
江南(中国南部)は雍正帝や乾隆帝の時代になっても満洲族の支配に反感をもつ人が多い地域。中国南部は清の皇帝にもおろそかにできない土地でした。そこで頻繁に行幸して皇帝の威厳をみせたり、優遇せざるをえない。という事情がありました。
中国の都市伝説その2・乾隆帝の母は宮女
陳氏とは別に「乾隆帝は雍正帝が宮女に産ませた皇子だ」という都市伝説もあります。こちらは母は誰なのかわかりません。
宮女の李氏が生母。というパターンが多いようです。というのも雍正帝の側室に李氏という人がいたから。歴史上の李氏には男子はいません。
「如懿伝」はこちらのネタを使ってるようです。
中国の都市伝説その3・乾隆帝の母の姓は「銭氏」
清朝時代に書かれた「永憲録」という野史には「錢氏為熹妃」と書かれています。つまり乾隆帝を産んだ熹妃の姓は「錢氏」になっているのです。
「瓔珞」のネタになった都市伝説です。
でも満州人の姓は長いですから。当時から省略して漢字一文字で書くことはありました。「鈕祜禄氏」と書くところを「鈕氏」と書くこともあります。そこで「鈕」と「銭」を間違えたのではないか。といわれます。しかも当時は筆で書いてますから、行書体になるとますます「鈕」と「銭」が似てる。
とはいえ。「永憲録」は「野史」です。「野史」とは公式な記録ではなく、当時の作家や知識人が書いた本です。
「永憲録」の作者は蕭奭という漢人。意図的に変えたのかもしれませんし間違えたのかもしれません。「永憲録」は乾隆年間に書かれた本です。当時の人が書いた本なので貴重なのですが、不正確な記事が多いことでも知られています。
また雍正帝の時代に側室の姓を間違って書いて降格になった役人がいました。このとき「鈕氏」を「銭氏」と書いてしまったようなので、このときのできごとをもとに「永憲録」を書いたのかもしれません。
どちらにしても「永憲録」は公式記録じゃないので好き勝手に書けるのです。清朝時代の「史料」に書いてるからといってあてにはならないのですね。
でも日本の研究者や歴史ファンの中には中国の「野史」を事実と信じてる人もいるので笑えないんですけどね。
なぜ中国人は乾隆帝の母が鈕祜祿氏では嫌なのか?
いつの時代も庶民は王室のスキャンダルを喜びます。
でもそれだけではありません。
清朝の時代には様々な噂話が作られました。
なぜでしょうか?
乾隆帝の親は漢民族じゃないとダメ
不思議なことに。
乾隆帝の生母(本当の親)と噂されるのはいつも漢人(漢民族)です。
陳氏も銭氏も李氏もみんな満洲人ではありません。漢人です。
鈕祜祿(ニオフル)氏は独特な名前をみても分かるように満洲人です。
乾隆帝の母が満州人なのが嫌、鈕祜祿(ニオフル)氏の子供なのが嫌なら。モンゴル人や朝鮮人でもいいはずです。
つまり中国人は 乾隆帝は漢民族から生まれたことにしたい のですね。
なぜかというと。
乾隆帝は清王朝の全盛期を作った皇帝だから。
中国王朝史上、最も良かった時代
康熙帝から乾隆帝の時代。社会は大きく発展し、経済も領土も中国王朝史上最大級。明の時代よりも国は栄えました。
事実、現在の中国の国境線はほぼ乾隆帝の時代にできています(実際には乾隆帝時代の清の領土は現在の中国よりも広い)。
皮肉なことに中国史上最高の王朝を作ったのは漢民族ではなく満洲人だったのです。
でも満洲人は昔なら女真族とよばれ、辺境の野蛮人と考えられていました。韓国ドラマを見ると女真族はいかにもな野蛮人として描かれます。当時の漢人が持つイメージもたいして変わらなかったでしょう。
実際には女真族は漢人や朝鮮人が思うほど野蛮ではありませんでした。でも漢人や朝鮮人は「女真族は野蛮人」と思いたかったのです。
そんな野蛮人に世界の中心の漢民族が支配されるはずがない。元(モンゴル)みたいに滅亡するさ。と思っていました。
ところが漢人の期待を裏切り、清王朝は明の時代よりも栄えていました。漢人の王朝が手にしたことのない広大な領土も手に入れました。清王朝はモンゴル・ウイグル・チベットを支配下におきました。漢人の国はそれら異民族を属国にしたことはありますが、自分の領土にして支配したことはありません。
そこで当時の漢人は考えました。
満州人がこんなにいい国をつくれるのはおかしい!
いい国を作れるのは「華」の人間=漢人の皇帝だけ。
ということは。
乾隆帝は漢民族の血を受け継いでいるのだ!
と。
中華思想(華夷思想)によくある差別が入りまくりの発想です。
逆にいうと、そうでもしないと
異民族に支配された漢民族のメンツが許さない のです。
そこで乾隆帝の親は漢民族とか、生母は漢民族。
というストーリーがいくつも作られました。
中国史の分野では「乾隆帝漢人説」といってわりと有名な話です。
今では中国の歴史学者も乾隆帝の母は鈕祜祿氏だと認めています。単なる都市伝説なのです。
でも、そういう噂があったのは事実。
ドラマにもお国柄がでていて面白いですね。
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