愛新覚羅 胤祉は清朝の皇子。
第4代皇帝康煕帝の第三皇子です。
康煕帝の時代に学問好きで書籍の編纂などで活躍した皇子です。あまり野心がなく皇帝になろうとしませんでした。
ところが雍正帝の時代に幽閉され命を失ってしまいます。
史実の胤祉はどんな人物だったのか紹介します。
胤祉 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1677年3月23日
没年月日:1732年7月10日
姓:愛新覚羅 氏
名:胤祉(いんし)→ 允祉
称号:和碩誠親王
地位:大清帝国 親王
父:康煕帝(清朝4代皇帝)
母:栄妃 馬佳氏
妻
嫡福晉 董鄂氏
側福晉 田氏
他 妾9人
子:12男6女
清王朝の第4代・康煕帝~雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
1677年3月23日(康熙16年)。胤祉が誕生しました。
父は康煕帝。
母は馬佳氏
馬佳氏は子沢山でしたが子供のほとんどが幼くして亡くなっていました。胤祉は馬佳氏が生んだ子の中では6番目。成人したのは姉の固倫栄憲公主と胤祉だけです。
康熙帝の子供の中では10番目に生まれた男子です。でも7人は幼いときに死亡しました。そのため三阿哥(第三皇子)としてあつかわれます。
胤祉の父・康煕帝は乗馬と射撃が得意でした。そのため日頃から体を動かし鍛錬を欠かさしません。あるとき康煕帝は胤祉を狩りに連れて行きました。15歳の胤祉は父に負けない成績を残しました。息子の成長に康煕帝は満足しました。その後も康煕帝は胤祉をつれてよくでかけました。
1696年。二度目のジュンガル帝国との戦いでは康煕帝は胤祉を連れて遠征しました。胤祉は鑲紅旗隊を率いて戦い、清軍の勝利に貢献しました。
学問好きな息子
1698年(康熙37年)。21歳のとき「誠郡王」になりました。他の皇子たちに比べても若い「王」への任命でした。
胤祉は幼い頃から学問が好きでした。西洋から伝わった幾何学を勉強しました。康煕帝は法律、暦、計算方法を書いた「律暦淵源」を作ろうと考え、その責任者に胤祉を任命しました。康熙帝景陵の「神功聖徳碑文」の執筆も任されました。
康煕帝は陳夢雷を釈放して胤祉に預けました。陳夢雷は学者です。でも三藩の乱(呉三桂・耿精忠・尚之信が起こした反乱)のとき耿精忠の仲間と疑われ追放されていました。
陳夢雷は胤祉の保護のもとに百科辞典「古今図書集成」の執筆を行わせました。
散髪して処分
康煕帝は勉強熱心な胤祉を気に入り、人びとの前で胤祉を褒めることもありました。
でも褒めるばかりではありません。間違ったことをすると厳しく処分することもありました。
1699年(康熙38年)。胤祉は敏妃(十三皇子の母)の喪があけていないにもかかわらず頭を剃りました。康煕帝は「敏妃の死から100日もたってない。にもかかわらず誠郡王は頭を剃った。無礼である」と非常に怒りました。
昔の人には「体は親からもらったもの」という考えがありました。アジア人はとくにその考えが強いです。
でもモンゴルや満洲人など北アジアの民族には「辮髪」の習慣がありました。満洲人の男性は後ろ髪を残して髪を剃るのが当たり前のファッションです。
そこで満洲人には「親の死から100日間は散髪したり髭をそったりしてはいけない。そうして親への悲しみを表現する」という習慣がありました。
清朝でも皇帝や皇后が死んだ時。臣下たちは100日間頭を剃ってはいけないことになっていました。でも清朝ではあまり守られてはいませんでした。
胤祉は皇帝の目につく機会にやってしまったのです。
胤祉は貝勒(ベイレ)に降格になりました。
皇子たちの後継者争い
胤祉は母親の地位が低いこと。学問好きだったこともあり。皇帝の位にはあまり興味がありませんでした。康煕帝治世の終わりにおきた皇子たちの後継者争いには積極的には関わっていません。でも皇太子・胤礽を助けるためには働きました。
1708年(康熙47年)。皇太子・胤礽が廃位になりました。胤祉は普段から皇太子胤礽と仲よくしていました。そこで康煕帝は胤礽が普段から何をしていたか聞きました。
胤祉から話を聞いたあと康煕帝はこのように言いました。
「胤祉は胤礽と親しくしていた。でも胤祉は胤礽に悪事を働くようには勧めていない。だから彼を非難すべきではない」
その後。胤祉の調査でモンゴルのラマ(僧侶)バハンクルンが第一皇子・胤禔に協力して皇太子 胤礽を呪っていたことがわかりました。胤祉はそのことを康煕帝に報告しました。
1709年(康熙48年)。胤礽が皇太子に復帰しました。康煕帝は第三皇子・胤祉、第四皇子・胤禛、第五皇子・胤祺を親王にしました。
胤祉には「誠親王」の称号が与えられました。
1712年(康熙51年)。胤礽は再び皇太子を廃されてしまいます。その後、康煕帝は皇太子を決めませんでした。
第一皇子と第二皇子が失脚後。胤祉は最年長の皇子になりました。日常業務や儀式のサポートには第四皇子・胤禛とともに第三皇子・胤祉があたりました。とくに最年長の皇子として父のサポートをすることもよくあったようです。
でも第三皇子・胤祉は重臣たちとの付き合いが上手ではなく、学者たちと付き合うのが好きでした。朝廷内には彼を支持する勢力はあまりいません。陳夢雷たちが胤祉の仲間でした。
1720年(康熙59年)。息子の弘晟が誠親王の世子(後継者)になりました。
1722年(康熙帝61年)。康熙帝が死去。第四皇子・胤禛が即位しました。雍正帝の時代がきました。
雍正帝の時代
雍正帝の即位後。名前に「胤」の字を使えないようになったので名前を「允祉」に変えました。
允祉の側近・陳夢雷を追放
雍正帝は即位後。陳夢雷のいる「在蒙養斎修書処」が允祉の派閥の中心。ただの学者の集まりではないと考えました。雍正帝は陳夢雷が三藩の乱を起こした耿精忠の仲間だと思っていました。そこで陳夢雷とその弟子たちを逮捕や追放にしました。
ところが逮捕したはずの陳夢雷の弟子が釈放されていました。清の朝廷は允祉に配慮したものと判断、その役人を降格処分にしました。
康煕帝の時代より漢人の知識人達が満洲人の支配に反抗して王朝を批判する文章を出したり、デマを流していました。「◯◯が王位を簒奪した」とか「◯◯は皇太后の実子ではない」とか。清王朝には王室関係のゴシップネタが多いです。多くは漢人の知識人達がでっち上げたフェイクニュースです。
そこで康煕帝の時代から思想の取締を行っていました。雍正帝も漢人の知識人達には神経を尖らせていたようです。案の定、雍正帝即位直後から「四皇子が皇位を簒奪した」という怪文書が出回り雍正帝も頭を悩ませます。現代のドラマで第四皇子・胤禛(雍正帝)が「陰謀をめぐらせる悪賢い人物」として描かれるのもこの時代のデマの影響が大きいです。
陳夢雷がそのようなデマを流した証拠はありません。でも三藩の乱の仲間と疑われた「前科」があります。康煕帝は陳夢雷を無実だと思って釈放しました。でも雍正帝は陳夢雷を危険人物と思っていました。
允祉と陳夢雷の派閥は徹底的に解体しなければいけないと雍正帝は考えました。
允祉は墓守に
允祉は「太子と仲がよかった」という理由で雍正帝から「景陵」の管理を任されました。景陵は康煕帝と皇后・妃たちが眠る墓です。
允祉は北京を追い出されます。允祉 はその決定が不満でした。親しい者には文句を言っていました。
1724年(雍正2年) 允祉の子・弘晟は有罪になり、世子(親王の跡継ぎ)の地位を剥奪されました。
1728年(雍正6年)允祉が蘇克濟に賄賂を要求。允祉はそのことで雍正帝の門前で弾劾をうけました。允祉は自宅に幽閉され郡王に降格になりました。あとで弘晟の罪だとわかり彼も監禁されました。
1730年(雍正8年2月)。雍正帝は 允祉を親王に戻しました。
胤祥の葬儀で悲しまなかったから処分
1730年6月(雍正8年5月) 怡親王 胤祥(十三皇子)が死去。允祉は葬式のときに悲しみませんでした。
弟とはいえ允祉と 胤祥は親しくありません。むしろ雍正帝に一番協力している胤祥を嫌いだったかもしれません。
でも当時の中国では葬式では悲しみを表現するために大げさに嘆き悲しむのがマナーでした。怡親王 胤祥は雍正帝と親しい人物です。胤祥を失った雍正帝は非常に悲しんでいました。そこで臣下たちは雍正帝に気に入られるため大げさに悲しんでいました。
日本では葬式で大人の男が大げさに嘆き悲しんでいる姿はあまりみかけません。葬式でいい年したおじさんたちが大げさに泣いているのはおかしな光景だと思う人が多いでしょう。でも中国や朝鮮ではそれが普通だったようです。
そんな中であまり悲しんでいない允祉は薄情な人物に見えたでしょう。臣下たちは雍正帝に報告しました。
日頃から允祉を快く思っていなかった雍正帝はこの件を利用して允祉から爵位をとりあげて監禁しました。
1732年(雍正10年)。允祉は監禁先で死亡しました。
允祉は知識人たちと楽しい時間を過ごせればよく、皇帝の座を狙うつもりはなかったのかもしれません。でも「怪しい人物と付き合っている→野心があるんじゃないか?」と雍正帝に目をつけられてしまったのが運の尽きでした。本人にたいした落ち度はなくても、付き合う人物は選ばないと大変なことになる。ということでしょうか。
テレビドラマ
宮廷女官 若曦 2011年、中国 演:陳鏡宇
花散る宮廷の女たち 2017年 中国 演:趙楠
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