ドラマ「トンイ」や「チャンオクチョン・愛に生きる」でおなじみの朝鮮王朝の王様・粛宗(スクチョン)
朝鮮三大悪女で有名な張禧嬪のときの王様とあってドラマになる回数も多いですね。それだけに描かれ方も様々です。かつては女性に弱い優柔不断な王様、恋に奔放な王様という描かれ方がおおくありました。でも最近はさまざまな描かれ方をされているようです
粛宗は14歳という若さで王になりました。若い頃は母親や母の親戚が政治に口出しして大変だったようです。しかし、粛宗はそれだけの王様ではありません。次第に自分で派閥をコントロールする強い王様になります。女性に弱いドラマのイメージとはちょっと違いますね。
史実の粛宗(スクチョン)はどんな人物だったのか紹介します。
粛宗(スクチョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1661年9月8日
没年月日:1720年7月31日
名前:李焞 (イ・スン)
称号:粛宗(スクチョン)
清式諡号:僖順王
父: 顕宗
母: 明聖王后
妻:
仁敬王后(金万基の娘)
仁顕王后(閔維重の娘)
仁元王后(金柱臣の娘)
側室
禧嬪張氏
淑嬪崔氏
䄙嬪金氏
寧嬪金氏
貴人金氏
昭儀劉氏
子供
長男:景宗(母:禧嬪張氏)
次男:盛壽・早世(母:禧嬪張氏)
三男:永壽・早世(母:淑嬪崔氏)
四男:英祖(母:淑嬪崔氏)
五男:早世(母:淑嬪崔氏)
六男:延齢君(母:䄙嬪朴氏)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の19代国王です。
日本では江戸時代の前期になります。
おいたち
1661年。 18代国王・顕宗と明聖王后金氏の一人息子として産まれます。幼い頃は病弱でした。兄弟はなかったため明聖王后は心配したといいます。
1667年。世子になりました。
1670年。金万基の娘・金盡玉(キム・ジンオク)を妃(世子嬪)にします。後の仁敬王后です。
1674年。父・顕宗が死亡しました。13歳で王になりました。この年齢であれば母が垂簾政治を行うのが普通です。でも、粛宗は自分で政治を行いました。とはいえ、幼い王がいきなり政治をするのは大変です。明聖王后は間接的に政治に口出しをしていました。
粛宗が王になったばかりのころ。領議政の許積(ホ・ジョク)を中心に主な役職は南人派が独占していました。明聖王后は信頼できる人物として母方の伯父で西人派の金錫冑(キム・ソクジュ)を都承旨兼御衛大将にしました。
国王になった粛宗
粛宗は王になった直後から、南人派と西人派の激しい派閥争いを相手に政治をしなければなりませんでした。
紅袖之変
1675年(粛宗1年)。
明聖王后は年齢が14歳と若く病弱な粛宗が王になったことに不安を感じていました。息子が麟坪大君(インピョンテグン:16代仁祖の三男)の息子・福昌君、福善君、福平君(まとめて三福といいます)に王位を奪われるのではないかと心配していました。
明聖王后の父・金佑明が三福が宮廷の女官と密通していると訴えます。しかし証拠は見つかりません。粛宗は三福を無罪にしました。でも事件はこれだけでは終わりませんでした。
南人派の許積と尹鑴が、金佑明はウソの告発をしたとして処分を求めました。粛宗は金佑明の処分を決定しました。
母・顯烈王大妃(明聖王后)の圧力
ところが母・明聖王后(顯烈王大妃ともいいます)は王命を偽造して重臣たちを集め、白装束姿で便殿で号泣。三福の処分と金佑明の無罪を訴え、重臣たちの署名を集めました。
母と重臣たちの圧力に粛宗は抵抗できず、金佑明の釈放と三福の流刑を決定しました。
粛宗が王になった始めの頃は垂簾政治こそ行ってなかったものの、実質的には母・明聖王后の影響で朝廷が動いていました。
金佑明は処刑こそ免れた者の、娘に助けてもらうという大恥をかいた上に、南人派から抗議が殺到。恥と怒りに耐えられなくなった金佑明は引退して酒浸りの日々を送り死亡しました。
その後、三福は釈放されました。
この事件は明聖王后と西人派を強く結びつけるとともに、三福の変のきっかけにもなりました。
庚申換局 南人派が失脚
南人派の重臣が大量に失脚した事件。力を付けすぎた南人派の横暴が強くなるとともに、幾つかの事件が重なりました。粛宗は南人派を見限ってしまいます。この事件を庚申換局(キョンシンファングク)といいます。
油幄濫用事件
1680年(粛宗6年)。
宮中で行われている祝宴中に雨が降り出して、粛宗は雨を避けるためテントを張ることを命令しました。ところが油幄(テント用の幕)がありません。調べてみると許積が勝手に持ち出して私用で使っていることがわかりました。当時、テント用の幕は軍が使う貴重な物です。許積の行いに粛宗は激怒、許積を罷免しました。
三福の変
許積の息子・許堅(ホ・ギョン)が、麟坪大君(インピョンテグン)の息子・福善君達と会って「粛宗は体が弱く兄弟も息子もいないもし何かあったら福善君は王を継ぐ立場になるでしょう。もしそのときがきたら兵を出す用意があります」と相談をもちかけました。そのときは福善君はなにもいいませんでした。
しかし許堅と三福が会って話をしていたことがばれてしまいます。許堅と三服は死罪になりました。許堅の父・許積はこの件には関わってはいませんでしたが無事ではすみません。死罪になりました。
さらに、尹鑴(ユン・ヒュ)らが多額の賄賂をもらっていることなどが発覚。南人派の腐敗が問題になりました。
これらの事件によって、粛宗は南人派を一掃することを決定。南人派重臣を大量に罷免しました。かわりに朝廷の要職についたのは西人派でした。
西人派の分裂
その後、南人派をさらに追い詰めるため金錫冑のとった方法が陰険だというので、西人派の若手が反発しました。1683年ごろ。西人派は老論派と少論派に分裂してしまいます。
勝ち残った西人派も分裂してしまいそれぞれの派閥の力は弱くなってしまいます。粛宗にとっては好都合でした。
仁顕王后 対 禧嬪張氏、女の闘いが始まる
1980年。仁敬王后が天然痘で死亡しました。20歳の若さでした。
このころ、慈懿大妃(仁祖の2番めの王妃・荘烈王后)の女官をしていた張玉貞(チャン・オクチョン)と出会います。美しかった玉貞(オクチョン)を粛宗に会わせたのは劣勢にたっていた南人派の巻き返しだといわれます。慈懿大妃や南人派の思惑通り、粛宗はオクチョンを気に入りました。
1981年。粛宗20歳のとき。玉貞(オクチョン)を寵愛する粛宗に危機感を持ったのが母・明聖王后(顯烈王大妃)です。西人派重臣の宋時烈の親戚から次の王妃(仁顕王后閔氏)を選んだばかりでした。明聖王后はオクチョンを宮中から追い出しました。
仁顕王后閔氏が新しく王妃になりました。14歳でした。粛宗は気に入りません。母によって気に入っていた玉貞(オクチョン)を追い出されたうえに、母の親戚である仁顕王后が王妃になったのです。粛宗と仁顕王后は最初から冷え切った関係でした。
1684年。母・明聖王后が死亡しました。西人派を背負って立つことになったのは仁顕王后です。
粛宗と仁顕王后の間に子供は産まれませんでした。そこで、
1686年。慈懿大妃と南人派は再び玉貞(オクチョン)を宮廷に戻しました。粛宗とオクチョンは再会します。粛宗は玉貞(オクチョン)を側室(淑媛)にしました。
西人派と南人派の対立は仁顕王后と張玉貞(チャン・オクチョン)の対立へと発展します。
1688年。張玉貞(チャン・オクチョン)が息子・昀(ユン)を出産しました。粛宗は大変喜びました。その功績で張玉貞(チャン・オクチョン)を禧嬪(ヒビン)にしました。
この後、粛宗と彼をめぐる女性の争いが激しくなります。ドラマで描かれるのはこのあたり。
でもこれ以上書くと長くなるので続きは後半のお楽しみにします。
続きを読みたい方はこちらをどうそ。
・粛宗(スクチョン)は王妃をすげ替える非情な王様?
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